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#海辺の町
午後になると、港から遼征がやって来た。作業着の袖を肘までまくり、細長い木箱を脇に抱えている。潮風の中で日に焼けた顔は落ち着いて見えるのに、足取りは少しだけ急いでいた。
「住職いる?」
「今、本堂。何それ」
「沖の沈船から上がったやつ」
啓介と芽生は同時にそちらを見る。
海辺の町では、沖に沈んだ古い船の残骸を、昔から“海賊船”と呼んでいた。子どものころには肝試しの話に混ざり、少し大きくなると観光向けの冗談みたいに扱われる。けれど春の曳航準備が始まってから、遼征たちは本当にその残骸と向き合っていた。
「こんなの、勝手に持ってきて大丈夫なのか」
「正式には一時保管。中身の確認だけ。あとで写真も撮る」
遼征は言いながら、離れの机に木箱を置いた。蓋は潮で膨らみ、釘の周りが黒く変色している。芽生が手袋をつけ、美恵が古布を敷く。啓介は息を詰めて見守った。
蓋が開いた瞬間、乾いた塩の匂いが立った。
中には、赤い細いリボンと、何枚か重なった札が入っていた。札はどれも水を吸って波打っている。けれど、そのうちの一枚には、墨の筋がまだ読めた。
芽生がそっと持ち上げる。
「……『み』」
札の上には、震えるような文字で、こう書かれていた。
命に終わるまで――
「変な言い方だな」
遼征が眉を寄せる。
「普通は“命が終わるまで”じゃないか」
啓介は、赤いリボンのほうに目を奪われていた。色は褪せているのに、結び目の形だけは妙にきれいに残っている。誰かの髪から解かれたばかりみたいに。
芽生が札を裏返す。
「続きはないですね。途中で切れたみたい」
「書きかけか、破れたかだな」
遼征は箱の底を指で探ったが、ほかには細かな木片と砂しか出てこない。
美恵が小さくつぶやいた。
「なんでこんなものが海の底から」
その場の誰も答えられない。
風が窓を鳴らし、離れの柱がかすかに軋む。啓介は、赤いリボンから目を離せなかった。見覚えがあるような、ないような。喉の奥に、言葉にならない引っかかりだけが残る。
遼征が箱を見下ろしたまま言う。
「曳航、前に進めるぞ。これ以上崩れる前に移す」
その現実的な声の横で、札の文字だけが場に置き去りになっていた。
命に終わるまで――
途中で途切れたその文が、離れの空気に妙に長く残った。
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