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#大人ロマンス
桃下結衣
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フルコースの料理が運ばれてくる中、どんなタイミングで重々しい話を切り出したらいいの?
たとえこれが最後の晩餐だとしても、遼と向かい合い、笑みを交わせる自信がない。きっと病院の廊下で言葉を交わした時のように、身体が拒否反応を示してしまう。
メインディッシュが置かれる前の早い段階で本題に入ったら、その後はどうやり過ごせばいいのか。険悪な雰囲気の中、最後のデザートを待つのは間違いなく地獄。
心の準備どころか、あれこれと考えるほど落ち着かなくなる。何気なくちらりと隣のテーブルへ視線を移した。
視線の先では、上品な服装をした中年の男女が食事をしていた。
……大丈夫、切り抜けられる。心を乱しちゃ駄目だ。冷静でいないと――
膝の上に乗せたバッグをギュッと掴み、深呼吸をして窓の外へ目を逸らした。
夜景を見ていると、不意に小さな振動音が聞こえた。テーブルに置いた携帯電話が着信を知らせている。
「えっ……」
楓ちゃん!?
画面に映る彼女の名前を凝視して息を呑んだ。
不吉な予感を胸に、携帯電話を耳に当てた。
「もしもし……」
躊躇いながら声を押し出した。
『こんばんは、亜紀先生。随分と早い来店ですね』
「えっ?」
――随分と早い来店?
『遠足前の浮かれた子供みたいに、時間まで待ち切れなかったんですか?』
声を詰まらせる私の耳に、ねっとりとした声が入り込んできた。
どこかで私を見てる!?
大きく目を見開き、再び辺りを見渡した。
どこ!? どこにいるの!
『そんな怖い顔でキョロキョロしちゃって。先生、みっともないですよ。いい大人なら空気を読んでください』
馬鹿にしたような笑いが耳を突く。
姿も見えない相手に弄ばれている感覚。たとえようのない屈辱感に襲われ、周囲を見渡す動きを止め、顔を引き攣らせた。
『それはさておいて。私、言いましたよね? 席に着いたら電話を下さいって。私の言葉を無視してのんびり夜景を眺めるなんて。それだけの余裕があるってことですか?』
「……早く到着したから。もう少し経ったら、私からするつもりだったわ」
『ふ~ん。……まあ、今から言うことさえ守って頂ければいいですけど』
「……」
『もう一度言いますよ。彼が来たら必ず私に電話を下さい。そして彼に通話中だと気づかれないように、そのまま携帯を伏せる。分かってますよね?』
「……ええ、分かってる」
『そこまで準備ができたら、私が渡した証拠を使ってぐうの音も出ないくらいに彼の口を塞いで下さい。……それを使えば彼はあなたを諦める。彼にとってその紙一枚は、あなたよりもずっと価値がある。亜紀先生、安心して下さい。――離婚は成立しますから』
確信を得ているような口振りだった。流暢に言った彼女は、電話の向こうでクスリと笑った。
――私よりもずっと「価値」がある?
重なる無礼な言葉に腸が煮えくり返る。楓の居場所を探ることを諦めきれず、さりげなく視線を店内に巡らせた。
あの子からは見えていて、私からは見えない場所……
彼女は“私に追い込まれる遼の顔が見たい”と言った。それが彼女の刺激だと。
だとしたら、私と向かい合う相手の顔が見える位置に身を潜めているに違いない。
どこかで覗き見る彼女に気づかれぬよう、携帯電話を耳から離して膝元へ下ろした。それを膝に乗せたバッグと身体の間から、するりと通路側の床に滑り落とした。
ゴトッ――と、絨毯の上に落ちた携帯電話が控えめな音を立てた。
私は椅子から立ち上がり、それを拾い上げようとしゃがみ込んだ。視線を向けたのは、今まで私が背を向けていた後方のテーブル席。
携帯電話が床に落ちた小さな音を耳で拾えたのは、せいぜい二つ離れたテーブルの客までだろう。
案の定、一瞬でも私に視線を向けたのは、音が届く範囲に座る客のみ。他の客たちは何も気づかない様子で食事を楽しんでいる。
同じタイミングで離れた場所から視線を向ける者がいるとすれば、通話中の電話から落下音を聞いた人物、ただ一人。
――楓だ。
会話の途中で聞こえたその音は、おそらく彼女を驚かせただろう。
巡らせた視界の片隅に映り込んだのは、大きな観葉植物の向こう側で揺れた女性らしきシルエット。
私が顔を上げた瞬間、目が合うのを避けてすっと身を隠したように見て取れた。
――あれが楓?
目を凝らすけれど、まるで視界を遮るかのようにスーツ姿の男性の背中が見えるだけ。
「……もしもし。ごめんなさい、大きな音を立てて」
座り直した私は携帯電話を耳に当て、何事もなかったように自分のテーブルに目を戻した。
『こんな時に携帯を落とすなんて。そこまで動揺してるんですか?』
再び私を小馬鹿にするような言葉が返ってきた。
「ええ、勿論するわよ。――そういうあなたは、図太い神経の上に相当な悪趣味ね。こんな高級レストランで、夫婦の修羅場を覗き見しながらディナーだなんて。一人じゃ乾杯も寂しいわね」
目の前に置かれたグラスの水面に、皮肉を込めた言葉を落とす。
『一人で乾杯?――まさか。こんな場所に一人で来るわけないでしょう。古い付き合いのボーイフレンドに同伴してもらってます。なので、私の乾杯はどうぞご心配なく』
「そう、ボーイフレンドに……」
――やっぱり。小柄なあなたの身体を隠しているのは、あのグレーのスーツを着た男性なのね。
古い付き合いのボーイフレンド?
昔の男か。それとも、あの子が言っていたセフレの一人か――何にしても、あの娘と長く付き合うなんて、潔白な関係とは思えない。
とにかく、これで楓の覗き穴の位置は察しがついた。彼女の気味の悪さに変わりはないが、どこから見られているのか知らないよりはマシだ。
『……あら。良かったですねぇ、亜紀先生。私にかけ直す手間が省けましたよ』
「えっ?」
――かけ直す手間が省けた?
『ダーリンが来ましたよ。女を待たせるのが常な男なのに……さすがに今夜の遅刻はマズイと思ったのかしら?』
電話の向こうでせせら笑う楓。
店の入り口へ視線を伸ばした私は、顔を強張らせて夫の姿を探す。
遼……
私を案内したウエイトレスの背後には、ノーネクタイのワイシャツに薄手のジャケットを羽織った遼の姿が見えた。
コメント
1件
うわ……この回、めっちゃ緊張感がすごかったです😭💦 携帯落とすシーン、頭の回転の速さにゾクゾクしました。観葉植物の陰に楓さんがいるって気づくところ、亜紀先生の冷静さが逆に怖い……。でも「一人で乾杯は寂しいわね」の皮肉、思わず笑っちゃいました。遼さん来たところで次が気になりすぎます! 柏木さんの心理描写、毎回ちゃんと心臓掴まれます🖤