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#執着
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「なっ……なんだよ! どうした?」
突然抱きつかれた遼は目を白黒させ、慌てて振り返る。
歩みを止められた彼は、そのままゆっくりと体を反転させ、私を見下ろした。
「待って……行かないで……」
私は夫の背中にしがみついたまま、怯えるように小さな声を漏らす。
「はぁ? 行かないでって……何言ってるんだ、おまえ……」
遼は怪訝そうに眉をひそめ、深くしわを刻んだ。
「違うの……私……怖いの。遼が段々と離れて……。私が……消えてしまうのが怖いのよ……」
閉じた瞼から涙がにじむ。
震える唇から、途切れ途切れに言葉がこぼれ落ちた。
「亜紀が消える? 何の話だよ……」
「……」
「亜紀……今日のおまえ、おかしいぞ。夕飯の時も、らしくなく感情的になったり。さっきも派手にグラスを倒したり」
「……」
私は彼に抱きついたまま、肩を震わせ、唇をきつく噛み締めた。
「……おい。黙ってたら分からないだろ? どうしたんだよ」
服を握って離そうとしない私の腕を、遼はそっとつかみ、戸惑ったように顔をのぞき込む。
「……遼……私に……」
『隠していることがない?』
そう続けようとした唇が、凍りついたように止まる。
『車の中で掛かってきた電話は、本当に竹田先生だったの?』
『どうして着信履歴が消えているの?』
『何度もメールを送ってきた人は誰なの?』
『どうしてメールにロックを掛けているの?』
――浮気をしているの?
「……」
聞きたいことは、たくさんある。
でも――
もし私が問い詰めて、
遼が浮気を認めたら……?
浮気を認められた私は、この先どうすればいいの?
彼が私を捨てて出て行く?
それとも、耐えられなくなった私が、この家を出て行くの?
本当に、この人を……
この生活を失ってしまうかもしれない。
頭の先から、すうっと血の気が引いていく。
締めつけられる胸が、悲鳴を上げるように痛んだ。
怖くて……
どれも聞けない……。
「遼……私に、東京へ行けなんて言わないでね……」
目を伏せたまま、ゆっくりと服をつかむ指の力を抜いた。
「はぁ? またその話?……その話はもう終わりにしようって言っただろ?」
「うん……そうなんだけど……」
彼の身体から離した手で、私は慌てて涙を拭った。
「そうなんだけど……何だよ」
遼は呆れたように言葉を返す。
「だって……遼らしくないこと言うから。『自慢の妻』とか、『羨ましく思ってた』とか……。だから、何だか調子が狂っちゃって……」
「……それで、勝手に一人でネガティブになってるのか?」
「……うん」
取り繕いの言葉を終えると、静かに頷いた。
「わけ分かんねえよ……。いきなり泣き出すし」
顔を上げようとしない私を見つめ、遼は小さくため息をつく。
「俺はどこにも行かないだろ? 亜紀も消えない。……っていうか、消えるって意味が分からん」
そう言って、遼は携帯電話をズボンのポケットへしまうと、私の両手をそっと包み込み、柔らかく微笑んだ。
「……」
私は携帯が収まったポケットから視線を逸らし、自分の手を包む彼の大きな手を見つめる。
「遼……私を愛してる?」
消えてしまいそうな声で問いかけた。
「はぁ!?……やっぱり今日の亜紀、おかしいぞ」
「馬鹿な質問だって分かってる。でも……女は、口に出して言ってほしい時だってあるのよ……」
そう……
たとえそれが、同情でも。
偽りで飾られた言葉でも――。
私は彼の手をそっと握り返し、苦し紛れに小さな笑みを浮かべた。
遼は深く息を吐くと、私の手を引き寄せ、そのまま静かに抱きしめた。
「愛してるよ。当たり前だろ」
耳元でそう囁くと、小さく息を漏らす。
耳が痛くなるほどの静寂が、二人を包んだ。
私は抱きしめられたまま瞼をぎゅっと閉じ、唇を噛み締める。
そしてゆっくりと目を開くと、彼の腕から身を離し、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「……キス、して」
彼に向かって、自分から口にしたのは初めての言葉だった。
口づけを求める唇が、かすかに震える。
「……」
彼は一瞬だけ表情を曇らせる。
それから私の肩にそっと手を添え、唇を重ねた。
ただ応えるためだけの口づけ。
そこには、求め合う熱も、名残を惜しむ優しさもなかった。
「……」
何か月も触れることのなかった夫の唇。
その感触は、心に残ることもなく、静かに離れていく。
唇が離れた瞬間――
胸の奥へ、冷たい絶望が音もなく広がった。
私は耐えきれず、逃げるように彼から視線を逸らす。
「気は済んだか?」
遼は薄く笑みを浮かべ、ため息混じりにそう言った。
コメント
1件
うわー、この回、胸がぎゅっと締め付けられました……。亜紀さんが「愛してる?」って聞くところ、声に出して言ってほしいって必死な感じが切なくて。それで「愛してるよ」って言われても、キスの感触に熱がなくて、余計に不安が確信に変わっちゃう展開が辛いです。携帯をしまうポケットから目をそらす描写が象徴的で、もう答えが分かってるのに聞けないもどかしさがひしひし伝わってきました。