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#執着
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桃下結衣
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「うん……ごめんね。遼の言う通りかもしれない。今日の私、なんだか変だよね。論文のことがあったり、最近また忙しくて疲れてるのかな……」
頬にかかる髪をそっと掻き上げ、込み上げる感情を押し殺すように笑ってみせた。
「ああ、そうかもな。明日も数件、心カテがあるんだろ? お前も早く寝ろ。……あ、それから昨日頼んだ患者のフォローも頼むな」
遼は私の体からそっと手を離し、目尻を下げた。
「分かった。ペースメーカーのチェック予定も、業者と打ち合わせしておくね」
「おお、頼む。頼りにしてるぞ」
その言葉だけを残し、夫は私に背を向けてダイニングの扉を閉めた。
遠ざかる足音。
続いて寝室の扉が開き、静かに閉まる音だけが、やけに大きく耳へ響く。
立ち尽くしたままの私は、力なくテーブルへ視線を落とし、そこに置き去りにされたグラスへ手を伸ばした。
冷え切ったガラス越しに、指先へ冷気がじわりと伝わってくる。
水滴をまとったグラスの中では、形を失った氷が静かに水へ浮かんでいた。
「……そうだ。私も早く寝なきゃ……」
溶けかけた氷を見つめながら、乾いた呟きがこぼれる。
グラスを片手にキッチンへ向かい、流し台の前でゆっくりと蛇口をひねった。
勢いよく流れ出した水は、傾けたグラスの氷を巻き込みながら、そのまま排水口へ吸い込まれていく。
それを見つめているうちに、じわりと瞼が熱くなった。
頬を伝う涙が、一筋、また一筋と流れ落ちる。
「……うっ……」
慌てて口元を押さえた瞬間――
堪えていた嗚咽が、静かなキッチンに漏れた。
「私たち……もう遅いのね……」
掠れた声が、喉の奥から絞り出される。
頬を伝った涙が、ぽたぽたと足元へ落ちていく。
私はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、顔を伏せた。
彼に触れた乾いた唇を、両手で覆い隠す。
……
ずっと変わりたいと願っていた。
真実から目を逸らす自分を、変えたいって……。
『愛してる』という言葉に、もう何の意味もない。
触れた感触だけが、真実を伝えてくる。
肌から伝わる想いは、どんな言葉でも隠せない。
夫婦の『義務』でしかない口づけ。
感情のない、冷たい唇。
夫はもう……
私を愛してなどいない。
「……うっ……うっ……」
押さえた指の隙間から、嗚咽が漏れる。
結婚によって、安らぎは約束されたものだと思っていた。
でも――
永遠に変わらない愛なんてない。
永遠に変わらない安らぎも、平穏もないんだ……。
逃げたくなかった……
変わりたかった……
だから真実を知ろうとしたのに……
「真実を知るのはつらい……つらいよ……今泉さん……」
涙に濡れた顔を隠すように、私は床へ額を伏せた。
キッチンには、蛇口から流れ続ける水の音だけが、いつまでも静かに響いていた。
コメント
1件
ああ、この回……胸がぎゅっとなりました。キッチンでひとり、溶けた氷と流れていく水を見つめながら涙するシーン、映像が浮かぶようで。冷え切ったグラスの冷たさや、排水口に消える氷の描写が、もう戻れない夫婦の距離を象徴しているようで切なかったです。「真実を知るのはつらい」という台詞に、彼女の長年の葛藤と決心の重みが詰まっていました。次が気になります……!