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#海辺の町
義海の一言は、笑い話として流れたはずだった。実際、昼過ぎまでは皆も半分そう扱っていた。けれど当の二人にとっては、流れてくれない。
啓介は札の清書をしながら、同じ字を二回書き損じた。芽生は聞き書きを整理しながら、同じ紙を三度並べ替えていた。
「集中して」
享佑が言う。
「できてる」
啓介が返す。
「できてないから言ってる」
「はい」
返事だけ妙に素直で、余計に笑われた。
作業場の空気はこれまでと同じようで、少しだけ違った。啓介が何か言う前に芽生が気づくこと。芽生が紙を取りに立つ前に啓介が道を空けること。そんな細かい呼吸が、急に周りの目に見えるようになってしまったらしい。
絋規がカメラを首から下げたまま通りがかる。
「否定するなら、もうちょっと下手にやった方がいいよ」
「何を」
啓介が聞く。
「お互い気にしてる感じ」
「してません」
芽生が即答する。
「今の“してません”で、してますって言ってるのと同じ」
「うるさいです」
啓介は思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。芽生がその一瞬を見てしまい、さらに気まずそうな顔をする。
そこへ享佑が清書用紙の束を机へ置いた。
「今それどころじゃない」
声は低いが、怒鳴っているわけではない。
「札が仕上がらなきゃ、全部止まる。浮かれてる暇も、気まずがってる暇もない」
正論だった。
啓介は背筋を伸ばす。
「……悪い」
「分かればいい」
享佑はそれだけ言って、自分の作業へ戻った。
静かになった離れで、芽生がぽつりとつぶやく。
「助かりますね、享佑さん」
「たしかに」
「切る時はちゃんと切ってくれるから」
「痛いけどな」
「でも必要です」
啓介はうなずいた。恋だ何だと騒げるほど、まだ何も終わっていない。離れも、札も、赤いリボンの持ち主も、どれも途中だ。
それでも、否定できないことだけは増えていた。
作業がひと段落した頃、啓介は何気なく窓の外を見た。石段の下に、見慣れない人影が立っている。背の高い女性で、こちらを見上げてはいるが、上がってくる気配はない。
「どうしました」
芽生が気づく。
啓介が指した先を見て、芽生も目を細めた。
「……誰でしょう」
その女性は数秒だけ立ち尽くし、やがて踵を返した。風に揺れた髪の端に、赤い色が見えた気がして、啓介は思わず立ち上がる。
けれど、石段を下りる頃には、もうその姿は見えなかった。
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