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#恋愛
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翌朝、雨は弱まったが、ホテルの空気は重いままだった。帳場の横を通る足音まで小さくなり、誰もが誰かの顔色をうかがっている。
ディアビレが裏階段の踊り場でシーツの束を抱え直した時、アネミークが柱の陰から出てきた。いつもきっちり結われている髪が少し乱れ、両手は白くなるほど握り締められている。
「お話ししたいことが、あります」
声が、今にも途切れそうだった。
ディアビレは人の少ないリネン庫へ彼女を連れていった。乾いた布の匂いに包まれた狭い部屋で、アネミークは一度目を閉じ、それからやっと口を開いた。
「奥様が……遺言書の封を、開けた夜を見ました」
ディアビレの手が止まる。
「確かなの」
「はい。あれは深夜でした。保管庫から封筒を持って戻ってこられて、蝋の割れた音がして……でも私は、見て見ぬふりをしました」
言うたび、肩が細かく震える。
「怖かったんです。逆らったら、この仕事も居場所もなくなると思って」
責める言葉は出てこなかった。ディアビレは棚から小さな椅子を引き寄せ、アネミークを座らせる。
「今、話してくれた。それで十分」
「十分じゃありません」
アネミークは首を振った。「そのあと、封筒は見ていません。現物は……もう、ないかもしれません」
その時、戸口にもたれた気配がした。ゲティだ。いつから聞いていたのか、風船でもひねる時みたいに指をくるくる動かしている。
「なくなった、は便利な言葉だな」
アネミークがびくりと肩を跳ねさせる。だがゲティの声は思ったより柔らかかった。
「紙ってのは案外しぶとい。燃やすにしても、隠すにしても、人はきれいに片づけたがる」
彼はゆっくり顔を上げた。
「燃やされたなら、燃やしきれなかった物がある」
その言葉で、リネン庫の空気が少しだけ変わった。なくしたものを探す目ではなく、残った痕跡を拾う目が、ようやく同じ方向を向く。
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