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住職の話が終わると、しばらく誰も声を出さなかった。
その静けさを破ったのは、思いがけず近所の年配の女性だった。
「私、夫とけんかした日、ここに座ってました」
皆が振り向く。
「話すほどのことじゃないと思ってたけど、ここに来ると、湯のみが置いてあってね。帰る前に一回、息ができたの」
それをきっかけに、ぽつり、ぽつりと証言が続いた。
「受験に落ちた帰り、親に会う前にここへ来た」
「店を閉めるか迷った日に、何も言わず座らせてもらった」
「子どもが熱を出して不安でたまらん時、ここで少し泣いた」
離れは、昔の避難場所だっただけではない。
今もなお、黙っていてもいられる場所として使われてきたのだと、言葉が積み重なるたびにはっきりしていく。
美恵が前へ出た。
「数字でも示します」
そう言って、寄付帳、利用記録、補修見込み、行事利用案をまとめた紙を示す。
「感情だけでは残せないので、残すために必要な形へ直しました。少人数利用なら維持費も抑えられます」
享佑が小さくつぶやく。
「その言い方、ちょっと好き」
「ちょっとだけ?」
美恵が睨むと、義海が吹き出した。
笑いがひとつ起きたあと、審査担当が口を開く。
「過去の価値だけでなく、現在の利用実態がある、ということですね」
「はい」
遙香が真っすぐ答える。
啓介は、そのやり取りを聞きながら、離れの床を見た。
傷はある。きしみもある。けれど、それでもここへ来たいと人が言う。その事実が何より強いのだと思った。
審査担当は資料を閉じる。
「条件付きで、判断を申し上げます」
離れの空気が、もう一度だけ張りつめた。
#海辺の町