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#海辺の町
雨音は変わらず続いていたのに、触れたところだけ、急に音が遠くなった気がした。
啓介の指先に、芽生の手のひらの温度がある。偶然だと言い訳できるくらいの触れ方なのに、離せばはっきり偶然でなくなる。その境目で、二人とも止まっていた。
芽生が息をのむ気配がする。
啓介もたぶん、同じ顔をしていた。
鼓夏は札を読んでいる。義海は蒸しパンを抱えたまま半分舟をこいでいる。だから誰にも気づかれていない、と思った。
「……啓介さん」
芽生がごく小さく呼ぶ。
「うん」
「これ」
「うん」
意味のない返事しか出てこない。
芽生の指が、少しだけ動いた。払うのでなく、確かめるみたいに。啓介の胸の奥が、遅れて熱くなる。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が浮かばない。
昼間の石段で聞いた“春が終わったら”の続きも、ここへ来る前の気まずさも、その一瞬だけは、全部雨の向こうへ遠のいた。
その時、戸がかすかに鳴った。
反射みたいに二人の手が離れる。
「追加の板、持ってきた」
低い声と一緒に、遼征が戸口に立っていた。腕には濡れないよう布で巻いた板と、簡単な図面の筒。
啓介は立ち上がる動作が少し遅れた。芽生も同じだったらしく、遼征の目が一度だけ二人の間へ落ちる。
「……悪い」
遼征はそれ以上何も言わない。
「見なかったことにできるタイミングなら、そうする」
その言い方が、気づいたうえで助け舟を出しているのだと分かる。
鼓夏は読んでいた札を閉じ、空気を何も知らないふうに整えた。
「板、助かる。こっちへ」
遼征が頷き、啓介へ筒を差し出す。
「ついでにこれも。港から持ってきた」
啓介は筒を受け取る。まだ指先には、ほんの少し前の温度が残っていた。
雨は止まない。
なのに、今の一瞬だけで、何かが前へ進んでしまった気がした。
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