悲しいかな、『日常』とは砂の城みたいなものであり、随分と脆いみたいだ。
四人家族の中流家庭で生まれ育ち、中程度のランクの高校を卒業して近隣の大学を出て、|天海ひばり《私》は地元の中小企業に就職した。平日は事務員をしながら収入を得て、休日には二、三人程度の友人達と予定が合えば遊び、実家には年末年始やお盆時期にだけ帰省する。そんな何処にでも居そうな『普通』の『一般人』である。学生の頃には彼氏がいた事もあったけど、特に理由もないまま何の進展もせず、気が付けば自然超滅して今はずっと独りだ。外見は平均よりはちょっと胸が大きめなだけの中肉中背、黒のセミロング、テンプレ的平凡な日本人顔の私は所謂『モブ』と呼ばれる分類に属する側の人間だ。
私の人生はこのまま何となく時が流れて何事もなく終わるだろう。
昨日みたいに悪天候の影響で電車が止まり、豪雨の中壊れた傘を抱えて歩いて帰宅しなきゃいけなくなったとか、二十六年分の人生を振り返ってもそんなレベルのトラブルしか語れないし。今までずっとそんな人生だったんだから、当然この先だってそんなもんだと思っていたのだ。
今日も職場を定時であがって何事もなく帰宅した。今さっき使った鍵を定位置に置き、週末だけどこれといった予定も無いから明日はなあなあにしてきた部屋の掃除やシーツの洗濯でもしようかと思っていた時、玄関ドアの方から何かが投函される様な音が聞こえてきた。…… だけど、このマンションのポストは一階の正面入り口にある。何かが個々の部屋に投函される事なんかまず無いのに、だ。比較的セキュリティーがしっかりしている方なので宅配業者だって受取人が在宅じゃないと部屋の前までは来られない構造になっている。何なら宅配ボックスだって一階にあるから『そこに入れておいて』とも頼める仕様だ。それなのに突如聞こえてきた『カタン』という音は、帰宅したてでまだ静かな部屋では随分と大きく響いて感じられた。そのせいかざわっと背筋に悪寒が走る。咄嗟に我が身を抱きしめたせいで、まだ持っていたままになっていた仕事用の鞄は足元に落としてしまった。
数分程そのままの体勢で必死に周囲の音を探る。まさか玄関前に誰かが居るんだろうか。そう言えば部屋の鍵はあの後ちゃんとかけたっけ?まだ開いていて、知らない人が急に入って来たらどうしよう。…… でも、もう特に不審な音は聞こえてこない。
(そもそも、気のせいだった、とか…… ?)
全力で走った後みたいにドクンドクンッと騒ぐ心音がすごく煩い。そんな心臓を宥めるみたいに安心材料を探しながら、私はゆっくり玄関の方へ足を向けた。音を立てないようにそっと歩き、おずおずと居間と玄関を隔てているドアを開けて、玄関の様子を伺う。これといった変化は何も無いかと思われたのだが、よくよく見てみると投函口に何かが挟まっている事に気が付いた。一歩、二歩と歩きながら施錠確認をして、ほっと安堵の息を吐く。
(大丈夫だ、鍵は掛けてある。これならもし外で何かあっても安全だ、よね?スマホはポケットの中だから廊下側で通報が必要な事態が起きてもすぐに取り出せるし)
自分にそう言い聞かせながら投函口に挟まっている物を確認すると、それはA4サイズの不透明なクリアファイルだった。『こんな物を誰が?』と考えながら手に取って中身を引き出す。出してみて、私は一瞬息が止まった。
「…… な、な、何これ…… 」
呟く声が震え、直様口元を左手で塞ぐ。中に挟まっていたのは一枚の紙で、そこには私の着替え姿が大きく印刷されていたのだ。最悪な事にほぼ裸に近く、部屋の中で無防備に着替えている最中といった感じだった。鏡で見慣れた体型だし、全体の雰囲気的にも残念ながら画像を切り貼りした様な合成感はまるで無い。
投函されていたファイルを胸に抱いたまま急いで居間に戻る。何度も現場と比較して確認してみたが、この紙に印刷されている着替え姿の背景はどう考えても私の部屋の家具ばかりだった。
(まさか盗撮?覗かれでもしたの?…… でも、どうやって)
巧妙に隠しでもしているのか、慌てて周囲を見回しながらカメラを探したがそれっぽい物は何も見付けられない。なのでもう一度よくよく確認してみると印刷されているこの写真はカーテンの隙間から撮影した様な印象であることに気が付いた。でもこの部屋は三階で、すぐ近くに似たような高さの建物は無い。たとえあっても、こんな写真を撮るには無理がありそうな程離れている。
「——ヒッ」
恐怖からか喉から変な音が出た。夜中にそこのベランダで誰かが撮影した物である可能性が頭に浮かんだせいだ。
写真《《だけ》》ならまだいい。いや、決して良くは無いんだけど、まだマシだった。
(…… 『レイプ希望。無理矢理が、大好き』…… って、何これ、ヤダ…… )
無駄に悪い想像ばかりが膨らむ様な、吐き気を覚える文面が手書き感のある書体で写真の隅に大きく添えられている。しかもご丁寧に私の住所と部屋番号まで一緒に。そして黄色くて四角い付箋が表に一枚。その付箋には『今夜伺います。部屋の鍵は開けておいて』とだけ、やけに綺麗な字で書かれていた。
(コレをばら撒かれたくなければ、鍵を開けておけって事?)
何処にもそんな事は書いていないけれど暗にそう言われている気がした。
この状況を打開しようと流れを振り返っていくだけでガタガタと体の震えが止まらなくなる。どうしよう、どうしようどうしよう。でもどうしたらいいのかわからず思考が停止する。警察に連絡をと一瞬思ったけど、『この程度』と一蹴される気がしてならない。だってドラマとかではそうだったし。被害と言える経験はコレが初めてで、今まで誰かにつけられたりといった類の被害は一度も無かったから、もし話を聞いてもらえても『様子見で』『巡回を増やしますね』とかと言われて終わりそうだ。まぁ実際問題それくらいしか出来ないんだろう。
(下手に通報したら刺激しちゃうかも。…… もしバレたら、コレをばら撒かれるの?)
ビラを手にした皆が皆コレを『嫌がらせをされただけだ』と考えてくれるとは限らない。悲しいかな、中には真に受けてしまう人だっているだろう。住所が書かれているけどすぐに引越しなんて現実的に無理があるし、今自分はどうするべきなのか、いくら考えても全然頭に浮かばなかった。
真っ暗な部屋の中でギギッと玄関ドアが開く様な音が微かに聞こえた気がする。続いて鍵が閉められていく音も。でも頭から布団を被り、枕に顔を埋めたままうつ伏せの状態になっているからか確信は持てない。もういっそ気のせいであって欲しい。
結局私は付箋の指示に従ってしまった。
絶対に選んじゃいけない選択肢だった事は自分でもわかっている。でも、だからってどうするべきなのかあの後も必死に考えたけど全く思い付かなかったのだ。平凡な生活に甘んじてきたから危機管理能力ってやつが育っていないなと今更気が付いた。
友人宅に逃げる、警察に通報する、いっそ武器になりそうな物を構えて待ち伏せする。一応そんな案くらいなら頭に浮かんだけど、どれも悪手に思えてきて怖くなった。
心臓がずっと煩い。緊張しっぱなしだし、息を殺しているからか呼吸が苦しい。いきなりホラー映画のワンシーンにでも閉じ込められた様な気分だ。
(此処に居るとは気が付かずに、諦めて帰ってはくれないだろうか)
だけどそんな私の甘い考えは、「——こんばんは、ひばりさん」と言う声で打ち砕かれてしまった。安いパイプベッドをギシッと鳴らし、自分の両脚にずしっと重いモノが乗る。多分声の主が私の脚に跨っているのだろう。
「逃げもせず、通報もしなかったんだな。うん、賢明な判断だ。もしそうしていたら僕はこの部屋には来なかったけど、その分もっと酷い事を君にする羽目になっていたからね」
ククッと短い笑い声が背後から聞こえる。程良い低音ボイスである事が妙に癇に障った。
「…… 布団に籠ってるのは、一応自衛のつもりなのかい?」
「…… 」
「んんー。でも、ベッドの上じゃぁ誘っているとしか、僕には思えないなぁ」
何も答えられずにいると、頭の近くでそう言われた。ボイスドラマとかでしか聴けない様な良い声のせいでざわりと体が震える。
「それじゃあ、この先もずっと良い子にしているんだよ。騒いでも暴れても僕は帰ったりはしないし、それに、こんな所にはナイフなんか入れられたくないだろう?」と言って、男は私のお尻をそっと撫でてきた。はっきりと『何処に』とは言われてはいないが勝手に『何処か』を想像して怖くなった。
「——さて、僕の言葉が理解出来たのなら、必死に掴んでいるその布団から手を離そうか」
「…… 」
聞こえてくるのは穏やかな声なのに体が強張る。それでもゆっくり掛け布団から手を離すと、脚からふっと重みが消え、男は直様布団を剥ぎ取ってしまった。頭隠して尻隠さず。意味的にこの状況とは違えども、そんな言葉が頭に浮かぶ。地面に頭を突っ込んでいる情けないダチョウの姿も。なのに私の恐怖心はちっとも消えてはくれなかった。
突如部屋の空気に晒された体がガタガタと震えている。そんな状態のまま枕に顔を伏せっていると、男は私の後頭部を優しい手付きで撫でてきた。
「このまま抵抗しなければ気持ちいい事しかしないから安心して。でも逃げようと画策したり暴れる様だったら手足を拘束したりもするから、そのつもりで、ね」
優しい声色で言われたが、同時に首元にヒヤリとした何かが触れた。絶対に男の手なんかじゃない。…… 金属類の感触だった。
「——さて。きっと君は今、『どうして自分がこんな目に?』って思いっている所だよね」
ずしっと再び両脚に重圧が掛かる。男がまた跨るみたいに座ったのだろう。
「単純な理由だよ。よくある一目惚れってやつだ。警戒心の欠片もなく、買い物袋を持って歩く生活感丸出しの君を偶然見かけて、恋に落ちた。僕は君が好きなんだ、愛していると言っても過言じゃない程にね。君のその極限を極めた様な『普通』の容姿を一目見て気に入ったんだ」
…… 『好き』『愛している』と知らない男に言われても全然嬉しくもないし、褒められている気がしない。いや、そもそもこれって、褒められてなんかいないのか。
「生活圏が丸かぶりだったおかげでその後の観察は楽だったけど、残念ながらそれ以外の接点が何も無い。まともな人間ならきちんとアプローチして少しづつ距離を詰めていくべきなんだろうけど、見ず知らずの男に理由も無く接触されても怖いだけだろう?演技は得意じゃないから計画的に『自然な出会い』を演出するなんて無理があるし、何よりもまどろっこしいだけだし、どうせ最終的な結果が変わらないなら、もうそんな手間は一気にすっ飛ばして仕舞えばいいやって思ってね」
そう言った男の大きな両手が私の背中に触れた。その姿を見ずとも、自分とは随分と体格が違う気がする。
「これで経緯は理解したかな?僕みたいな男に見初められた時点でもう君に逃げ場はないんだ、全部を諦めて、残りの人生の全てを僕に委ねるしかないんだよ」
突如大きな体が覆い被さり、耳元でそう囁かれた。背後に触れている男の体はとても熱くて硬い。随分とガタイの良い男性である事がわかった。
「あぁ…… 震えちゃって、可愛いなぁ。獣に食われる前の小動物みたいだ」
耳を舐められ、水音が耳奥に響く。
「じゃあ、早速僕と子作りをしようか。孕めば、一人で子供を育てるには微妙に収入面で不安がある君だと僕を頼るしかないしね。人並みに責任感のある君じゃ子を捨てて逃げる事も出来ないし。何よりも、堕胎行為を嫌悪していた母親に『どんな事があろうとも絶対に堕胎は駄目だ。もし最悪何があっても母さんも一緒に育てるから』って教育されてきた君じゃあ産むしかないから、堕して逃げる事も選べないだろう?——だから、今から子を孕もうな」
「な、何で知って…… 」
問い掛ける声が震えた。確かに、一人目がなかなか妊娠出来なかったらしい母親にそう言われて育ったけど、どうしてこの男がそれを知っているのだろうか。
「あぁ、やっと喋ったね。こんな間近で聞いたのは初めてだ。焦がれていたからか天使の美声みたいに聞こえるよ」と歓喜に声を振るわせるばかりで問いには答えてくれない。私をずっと『観察』していたらしいから、その過程で知ったのだろうか。
「心配しないで。こんな僕だけど良い父親にはなれると思うんだ。んな目に遭っている時点で全然信じられないだろうけど、まぁ少なくとも、お金の心配は一切しなくていいよ。決まっていた就職は君に惚れた時点で即蹴ったから時間的な融通がきくし、でも収入はしっかりあるからさ」
(働いてないけど収入はあるって、何それ逆に怖い!)
荷重が少し消え、また男が私の体に触れる。その手は肩から始まり、下に下にとゆっくり外輪を楽しむみたいに動いていって、ついにはお尻に触れた。
「まぁ、『怖がるな』って言っても無理はあるだろうけど、少なくとも僕は、無責任に孕ませるだけ孕ませて逃げる強姦魔じゃないよ。ただ、大好きな君を孕ませて、僕から逃げられない様にしたいって事だけ、今はわかっていればいいから」
興奮混じりの声のせいで変な汗が体にじわりと滲む。ゴリッとお尻に硬いモノを押し付けられた瞬間、私は『平穏な日常』が崩れ去った事を確信した。
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