テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#海辺の町
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昼過ぎ、役場から遙香が来た。風に煽られた前髪を片手で押さえながら、もう片手で資料の入ったファイルを叩いている。歩き方からして忙しい。
「先に言うね。情だけじゃ、残せない」
座る前に言った。
啓介は湯のみを置く。
「分かってる」
「分かってる人の顔じゃない」
「うるさいな」
遙香は苦笑いだけして、美恵の横に資料を広げた。耐震、安全導線、補修費、保険。そこへ枝央理も加わり、危ない箇所を赤い付箋で示していく。
「この床の沈みは要確認」
「裏手の崖側も。雨が続くと怖い」
「人を入れるなら、今のままは無理」
言葉はどれも正しかった。正しいぶんだけ、啓介の胸には刺さる。
「じゃあ、壊すしかないってことですか」
思わず声が硬くなる。
枝央理は首を振った。
「そうじゃない。残すなら、何に使い、誰が必要としていて、どこまで手を入れるかを示す必要があるってこと」
「つまり理由だよ」
遙香が引き取る。
「『昔からあるから』だけじゃ弱い。『思い出があるから』も、それだけだと通りにくい」
啓介は反論しようとして、できなかった。口の中で言葉がほどける。
すると芽生が、資料の端を指で整えながら言った。
「人の記憶を集めませんか」
「記憶?」
遙香が目を瞬く。
「この離れで何があったのか。誰が助けられたのか。笑ったのか、泣いたのか。昔話としてじゃなく、今につながる形で残すんです」
「作文集ってこと?」
「もっと、届く形で」
芽生は、昨日見つかった札を見た。
「かるた、どうでしょう」
みんなが一度、黙った。
「一枚ごとに、町の記憶を入れるんです。読む人がいて、聞く人がいて、絵がついて、残る。建物の説明より、ここがどんな場所だったか伝わりやすい」
「面白いけど、遊びで終わらない?」
枝央理がたずねる。
そこで啓介が、ようやく口を開いた。
「終わらせません。たぶん、ここには、ちゃんと残すべき話がある」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
遙香は啓介と芽生を交互に見て、それから肩をすくめた。
「分かった。情だけじゃだめ。でも、情がなきゃ動かない話でもある」
「じゃあ」
「集めよう。残す理由になるだけの、人の声を」
窓の外では、海が春の光を返していた。
離れを残す理由。
それは、誰かの懐かしさではなく、ここで確かに受け取られた温度を、今の言葉で差し出し直すことなのかもしれなかった。