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夜の部屋には、湿った静けさが沈んでいた。
薄いカーテンが風に揺れ、外の街灯の明かりが壁にゆらゆらと映っている。
遥はその光をじっと見つめながら、机の角に指先を押し当てていた。
階下から、晃司の笑い声が聞こえる。
誰かと電話をしているらしい。
その声が途切れた瞬間、空気がぴんと張り詰めるのがわかった。
足音が階段をのぼってくる。
一段ごとに、音が近づく。
遥の指先にじっとりと汗がにじんだ。
ノックもなく、ドアが開く。
「起きてたか」
晃司の声は、いつもと同じ穏やかさを装っていた。
「……うん」
遥は返事をしたが、喉の奥がかすれている。
晃司は部屋を見回し、壁に立てかけられた教科書やプリントの山を目にして、ふっと笑った。
「勉強、してたのか。まじめだな」
そう言いながら、ゆっくりと近づいてくる。
その歩幅が異様にゆっくりで、まるで逃げ場を奪うようだった。
遥は視線を机に落とした。
晃司が近づくと、部屋の匂いまで変わる気がした。
その匂いが、過去の痛みを呼び覚ます。
「この前さ、怜央菜が言ってた」
晃司の声が低く落ちる。
「“日下部、まだうちに来てんの?”って」
遥の肩がぴくりと動いた。
「……別に、来てない」
「嘘つけよ」
笑いながら言うその声の裏に、冷たいものが走る。
「お前の顔見りゃ、だいたい分かる」
晃司は机の上のシャーペンを指で転がした。
金属音が乾いた部屋に響く。
「なあ、あいつに何話してんの?」
「……何も」
「ほんとか?」
シャーペンが机の端から落ち、床を転がった。
晃司はその音を追わず、遥の顔を覗き込む。
「“家のこと”も、言ってねぇよな」
その一言に、遥の心臓が強く跳ねた。
晃司はそれを逃さない。唇の端をわずかに上げる。
「……まあ、いいけど」
そう言って、遥の頬を軽く叩いた。
力は弱いはずなのに、音が異様に大きく響く。
「ビビんなよ。ただ確認しただけだろ」
そう言いながら、晃司は遥の肩を掴み、ぐいと引き寄せた。
逃げようとする腕を、軽く押さえつける。
「お前、ほんとにわかってんのか?」
囁くように、耳もとで言う。
「“うちはうち”だって。外に余計なこと言ったら、どうなるか」
遥はうなずくこともできず、ただ息を詰めたまま固まっていた。
晃司の手が離れると同時に、冷たい空気が肌に戻ってくる。
「そう、それでいい」
晃司は満足げに言って立ち上がる。
「お前が余計なことさえしなけりゃ、俺も怒らねぇ」
その背中がドアの向こうへ消えたあとも、部屋の空気は揺れなかった。
遥は深く息を吐いた。
けれど胸の奥は、吐き出せない熱でいっぱいだった。
机の上のプリントが、風もないのに微かに揺れた。
その白い紙の端に、小さく赤い染みがついている。
頬に触れると、指先が湿っていた。
遥は顔を伏せた。
涙ではなかった。
それでも、静かに喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
(――日下部には、見せられない)
その思いだけが、胸の奥で何度も反響した。
壁の向こうから、晃司の低い笑い声が聞こえた。
その音が、遥の夜を完全に閉じ込めた。