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夜の底は、呼吸の音ひとつにも敏感だった。
照明を落とした部屋の中で、遥は壁に背を押しつけていた。薄いドアの向こうから、階段を軋ませる足音。ゆっくりと、一段ずつ。
颯馬だった。
その足音だけで、喉の奥が乾く。呼吸が乱れ、心臓が皮膚の裏を叩く。
「……まだ、起きてんの?」
静かに開いたドアの隙間から、颯馬の影が滑り込む。声は柔らかい。だがその柔らかさが、最も危険だった。
「晃司の、さっきのあれ、見た?」
「……」
「お前の顔、すげぇ面白かったよ」
足音が近づくたび、部屋の空気が薄くなっていく。逃げようとしても無駄だと、体が覚えている。
壁際に追い詰められ、遥は微かに震えた。
「黙ってると、ムカつくんだよ」
颯馬の指先が顎を掴む。強くもなく、優しくもない。感情の温度がどこにもない触れ方だった。
「なんで、あいつ(日下部)なんかとつるんでんの?」
「……関係、ない」
「関係あるよ。遥のくせに、楽しそうにしてたじゃん」
嗤いが零れる。
その音は、感情ではなく習慣に近い。
颯馬の世界では、「痛み」は言葉よりも確かな手段だった。
遥の肩が震える。呼吸が乱れ、喉から小さな音が漏れた。
その音に、颯馬の口角がゆるむ。
「ほら、いい声出んじゃん」
囁き声が耳の奥を刺す。逃げようと体を引いた瞬間、壁に背中がぶつかる。もう、後ろはない。
遠くで、時計が一度だけ鳴った。
秒針の音がやけに鮮明に聞こえる。
颯馬はその音に合わせて、遥の髪を掴んだ。引くでもなく、撫でるでもなく。まるで、「恐怖」という楽器の調律をしているかのように。
「晃司も言ってたよ。……お前、変わらないなって」
「……放っといて」
「放っとけないよ。家族だし」
その「家族」という言葉が、何よりも残酷だった。
颯馬の笑い声が低く沈む。
照明の明かりが、遥の頬を濡らした線をかすかに照らす。
逃げられない夜が、また始まった。