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第3算話 はじめての演算
「それ、返せよ」
声を出した瞬間、喉が少しだけ遅れた。
遅れたのに、言葉だけはまっすぐ出た。
空き地の上には、夕方の手前のひかりがまだ残っていた。
舗装の割れ目にたまった土が乾き、用水路の向こうで草が低く伏せている。
その真ん中で、チョウは立っていた。
塀から離れたばかりの体はまだ半分だけもたれているみたいで、灰色の上着の裾が風にずれても直さない。
目だけが先に笑って、口元はあとから追いかけてくる。
その浅い笑い方が、ローリエにはいちばん嫌だった。
しゃがんでいた少年は、ローリエの声で肩を上げた。
年下のふたりは、持っていたビー玉とおはじきを手の中へ隠す。
それでも遅い。
チョウの目はもう、その手のかたちまで見ていた。
「へえ」
チョウが言った。
「さっきの坊ちゃんじゃん」
ローリエは答えなかった。
返事をしたら、向こうの調子に乗る気がした。
それに、今はまだ声より先に見ることが多かった。
チョウの足の位置。
右足が半歩前。
左はいつでも引ける置き方。
壁から離れたばかりなのに、逃げる形がすでに残っている。
「おまえ、まだふらついてるだろ」
そう言うと、チョウの細い目がほんの少しだけ狭くなった。
図星らしかった。
店で受けた一撃は、顔色が悪いとか、足元のよろけとか、そういう派手な残り方をしていない。
でも、肩の入り方が違う。
視線を動かす時の速度がほんの少し鈍い。
頭の中にまだ遅れが残っている。
ローリエはそれを見ながら、かばんの肩ひもを静かに外した。
空き地の土へ置く。
紙袋は左手の中。
そろばんは右手が届くところ。
少年が小さく言った。
「知り合い?」
「違う」
「でも、さっきの」
「見ただけ」
答えながら、ローリエは紙袋の中の珠の位置を指先で探った。
緑の玉。
水色の玉。
茶色のおはじき。
さっき駄菓子屋で、自分で選んだものだ。
今は、軽くない。
値段のせいでもなく、店で見た一撃のせいだけでもない。
使うかもしれない、という重さがある。
チョウが鼻で笑った。
「返せって、なにを」
「その子たちのやつ」
「どれが」
「全部だよ」
「ずいぶん雑にまとめるな」
チョウの言い方は軽い。
でも、足はもう子どもたちの輪へ寄っていた。
水色のビー玉を隠した小さな手へ、ゆっくり視線を落とす。
ローリエは一歩、前へ出た。
土の感触が靴底で少し鳴る。
用水路の水が、石に当たって細い音を立てる。
その全部が、さっきよりはっきり聞こえた。
頭の中で、順番が自然に並び始める。
先に守るのは、子どもたちの輪。
次に、チョウの手。
その次に、自分のそろばん。
最後に、逃げ道。
最上位から右へ。
処理順。
「坊ちゃんさあ」
チョウが肩をすくめる。
「店で見たからって、急に分かった顔してるけど」
言いながら、懐へ手を入れた。
出てきたのは、そろばんだった。
枠は古い。
木の色もくすんでいる。
でも、使われてきた古さじゃない。
放られてきた古さだ。
角に小さな欠けがあり、珠の動きもひとつだけわずかに渋い。
ローリエは喉の奥が少し乾くのを感じた。
持っている。
本当に、持っている。
さっきおばあちゃんが見せたものと同じ種類の道具が、今、チョウの手にもある。
それだけで、空き地のかたちが少し変わった。
「見せてやろうか」
チョウは笑ったまま、ポケットからビー玉をふたつ、みっつ、まとめて取り出した。
それから、別のポケットからおはじきも出す。
子どもから奪ったものだ。
光の浅い夕方の中で、丸いものと平たいものが掌でこすれ合う。
ローリエは視線を落とした。
子どもたちが息をひそめている。
少年だけが、前に出たいのをこらえて、爪先へ力を入れていた。
「下がってて」
ローリエがそう言うと、少年は少し迷ってから、年下ふたりを横へ引いた。
三人の足が、土のやわらかい場所をきゅっと踏む。
チョウはその様子を見ても、止まらなかった。
上から。
下から。
乱暴に。
ビー玉を上段へ滑らせる。
おはじきを下段へ押し上げる。
でも、止める場所が雑だ。
正しい位置の少し手前、あるいは少し向こう。
なのに、無理に入れ込む。
ローリエの目が細くなる。
「そうじゃない」
思わず口に出た。
チョウが片眉を上げる。
「なにが」
「止めてない」
「あ?」
「通してるだけだ」
言った瞬間、自分でも驚いた。
知っていることが、まだ少し前の出来事なのに、もう口から出ていた。
おばあちゃんの手。
上から。
下から。
そこで止める。
ただの操作ではなかった。
止める場所そのものが意味だった。
通してしまったら、ただ勢いだけが残る。
チョウは鼻で笑った。
「うるせえな」
次の瞬間、珠を弾いた。
乾いた音。
けれど、まとまりがない。
ひとつの音のあとに、遅れて別の音が引っかかる。
枠の中で、それぞれが勝手に走ってぶつかり、ひとつに揃わない。
それでも、現象は出た。
空き地の土が前ぶれなく跳ねた。
細い砂が三本、四本、前へ走る。
爆ぜるというには弱い。
けれど、子どもの足元を狙うには十分な乱暴さだった。
「うわっ」
少年が年下ふたりを引く。
土の粒が足首へ当たり、ひとりが短く悲鳴を上げた。
ローリエは反射みたいにかばんへ手を伸ばしていた。
そろばんを出す。
枠の角が指へ当たる。
学校で使い慣れた重み。
なのに、今は違う。
木の内側で、まだ知らない深さがじっとしている気がした。
左手で紙袋を開ける。
緑の玉をひとつ。
茶色のおはじきをひとつ。
チョウはもう次を入れている。
とにかく数を詰める。
位の順番も、構造の重なりも雑だ。
強いというより、荒い。
ローリエは息を吸う。
まず、最上位。
左が骨。
右が皮膚。
店で聞いた言葉が、頭の中へ戻る。
上段へ玉を入れる。
上から滑らせる。
止める位置を探る。
さっき店でやった時より、手の震えが少し強い。
空き地の風が指先に当たるせいかもしれない。
子どもの息が背中に触れるせいかもしれない。
いや。
見られているせいだ。
見られながら、初めてやる。
それだけで、止める場所が少し遠い。
ローリエは一度、浅く触れた。
違う。
通りすぎる。
戻す。
チョウの二発目が弾かれる音がする。
砂がまた走る。
今度は線ではなく、塊だった。
用水路の柵へぶつかって、からんと乾く。
止める。
今度は入った。
小さな音。
でも、そこに意味が立ったのが分かる。
次に下段。
おはじきを下から押し上げる。
既存の珠の位置へ合わせる。
そこで、止める。
ここも、早すぎるとだめだ。
遅すぎても意味が薄い。
押し込むんじゃない。
はめ込む。
ローリエの指が止まる。
入った。
チョウが笑う。
「遅っ」
その言葉は本当だった。
遅い。
自分でも分かる。
そろばん教室の珠なら、もっと速く動かせる。
計算のためなら、もっと迷わない。
でも今は、速さより前に、意味を外したくなかった。
チョウの三発目。
今度は用水路の脇の草が一斉に伏せた。
風に見えた。
けれど、ただの風ではない。
草の根元だけを押すみたいな、ひっかかりのある動きだった。
年下のひとりがしゃがみこむ。
もうひとりは少年の背へしがみつく。
ローリエは珠を弾いた。
パチ。
小さい。
チョウの音よりずっと小さい。
なのに、空気はちゃんと返した。
自分の前の土が、ふっと盛り上がる。
高くはない。
壁とも呼べない。
でも、前へ走っていた砂の勢いを、そこで一度だけ鈍らせた。
ローリエは目を見開いた。
止まった。
完全ではない。
でも、止まった。
チョウも少しだけ顔をしかめる。
「はあ?」
ローリエはそろばんを持ち直した。
今のは、たぶん防ぐ形だった。
左で受ける流れを作り、右で浅く立てた。
ちゃんと理解していたわけじゃない。
けれど、組んだ順番が、そのままそう出た。
古い機械を触る時に似ている、と思った。
最初から全部は分からない。
でも、どこへ何を置けば、どこが先に動いて、どこで崩れるかは、手の中でだんだん分かってくる。
チョウは舌打ちした。
次の珠を、今度はもっと乱暴に詰める。
おはじきを二枚重ねかけ、上段へ無理に玉を滑らせる。
「雑にやると壊れるぞ」
ローリエが言うと、チョウが鼻で笑う。
「壊れる前に当てりゃいいんだよ」
弾く。
今度は前より大きかった。
空気が斜めに裂ける。
風とも違う。
貫く感じの速さが、土の上を浅くなぞって走る。
草の先だけが遅れて千切れる。
ローリエは反射で体をずらした。
制服の脇を、冷たいものが擦っていく。
遅れて、背後の木箱の端がはじけた。
息が止まりかける。
当たっていたら、たぶん転んでいた。
軽くない。
浅くもない。
「見ろよ」
チョウの口元が上がる。
「出るんだよ、ちゃんと」
出る。
たしかに出ている。
でも、出しているだけだ。
ローリエはその言葉を心の中だけで言った。
正しいとは違う。
強いとも、まだ少し違う。
とにかく出して、当たるまで続ける。
そのやり方だ。
それなら。
それなら、崩れる場所もある。
ローリエは子どもの輪とチョウの位置を見た。
用水路。
倉庫の壁。
右足が半歩前。
左は引ける。
けれど、引く方には用水路の段差がある。
チョウは前へ出るのは雑だが、下がる時はまだ気にしている。
だったら、押し返せば崩れる。
最上位から。
左で流れを決める。
右で当てる。
ローリエは紙袋からもうひとつ、透けた水色の玉を取り出した。
指先で触れると、さっき選んだ時より冷たい。
上段。
止める。
下段。
止める。
今度は少し速かった。
まだぎこちない。
でも、どこで止めるかは見えてきている。
チョウが顔をしかめる。
「なんだ、それ」
「順番」
「は?」
「ちゃんとやるだけだ」
自分で言って、自分の声が少し落ち着いてきたのが分かった。
珠を弾く。
パチ、パチ。
ひとつではなく、ふたつ。
でも重ならない。
順番に出る。
先に手前の土が持ち上がり、次にその少し向こうで細かい粒が横へ広がる。
大きな一撃ではない。
けれど、チョウの足元に、浅い揺れが二段で入った。
「うおっ」
チョウが踏み直す。
一歩、半歩。
左足が段差へ寄る。
ローリエはその動きを見た瞬間、次の形が浮かんだ。
処理。
整列。
移植。
古い機械へ遊びを入れる時、動かなかった場所にはたいてい理由がある。
画面の大きさが違う。
順番が違う。
受け取る値が合っていない。
そこを直すには、全体を壊すより、最初の並びを少し変える方が早い。
今も同じだ。
チョウの攻撃そのものを全部止めるんじゃない。
立つ場所を変えさせる。
そこから崩す。
ローリエは緑の玉へ触れた。
下段のおはじきも直す。
ひとつだけ、位置を右へ送る。
左で押す。
右で刺す。
それだけを頭に置く。
チョウは苛立ったように珠を詰めた。
今度は数が多い。
位も詰まり気味だ。
上段と下段の間で、指が雑にぶつかる。
危ない、とローリエは思った。
止める場所を失っている。
意味より先に数を押し込んでいる。
チョウが弾いた。
音が乱れた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
遅れて、空気が鈍く鳴る。
現象が出る前に、枠の中でどこかが引っかかったのが分かる。
それでも出た。
でも、向きがぶれた。
さっきまでまっすぐ来ていた貫く感じの一撃が、途中で少し上を向く。
倉庫の壁へ当たり、乾いた破片が散る。
「ちっ」
チョウが顔をしかめる。
その瞬間、ローリエは弾いた。
順番は整っていた。
最初の一打で、土がチョウの足元から横へ押す。
次の一打で、その少し先、段差ぎりぎりの場所へ細い衝きが入る。
強くはない。
でも、向きがある。
チョウの足が、半歩ぶれた。
「うわっ」
踏み直そうとして、用水路の縁の石へかかる。
そこは少し欠けていた。
靴底が引っかかり、体が横へ流れる。
チョウは転びはしなかった。
でも、大きく腕を振ってバランスを取る。
その手から、ポケットへ詰めたままだったビー玉とおはじきがいくつか落ちた。
からら、と硬い音が土へ散る。
子どもたちが息をのむ。
水色。
茶色のふち。
見覚えのあるものが、夕方の地面で小さく転がる。
「それだ」
年下の子が叫ぶ。
チョウが舌打ちして、しゃがみこみかける。
ローリエは前へ出た。
「触るな」
その声に、自分でも少し驚いた。
さっきより強く出た。
喉の奥で迷わなかった。
チョウが見上げる。
細い目が、今度は少しだけ剥き出しになる。
「調子に乗んなよ」
ローリエはそろばんを持ったまま、落ちた玉とおはじきの前へ立つ。
「返せって言った」
「ガキの遊びもんだろ」
「違う」
「なにが」
ローリエは少しだけ息を吸った。
言葉は、思っていたより早く出た。
「止める場所があるんだよ」
チョウが眉を寄せる。
「は?」
「ただの玉でも、おはじきでも、持ってるやつには位置がある。勝つ前の場所とか、次に狙う場所とか、そういうの」
言いながら、自分でも少し不思議だった。
そんなふうに考えたことはなかった。
でも、今はそうとしか言えなかった。
遊びの輪にも順番がある。
どれを先に弾くか。
どこへ置いて、どこを狙うか。
それを奪うのは、ただ取るだけじゃない。
途中を消すことだ。
少年が後ろで、小さくうなずく気配がした。
チョウは鼻で笑った。
でも、その笑いは最初より浅い。
「めんどくせえ理屈」
そう言って、また珠を詰めようとする。
けれど、手がさっきより雑だった。
焦れている。
止める場所を見ていない。
ただ数で押し切るつもりだ。
ローリエの目には、それがもう分かった。
「だめだ」
思わず言う。
「そのまま入れたら」
遅かった。
チョウが弾く。
ひどく鈍い音がした。
空気が一度だけ重く沈む。
そのあと、何も出ない。
いや、出なかったわけではない。
枠の中で詰まったものが、逃げ場をなくして止まった。
チョウの肩が固まる。
次の瞬間、そろばんの中の珠がばらばらに震え、手元で鈍くはじけた。
大きな爆ぜ方ではない。
でも、十分だった。
チョウの指がびりっとしびれたみたいに開き、そろばんを落としかける。
「っ……!」
体が止まる。
一瞬だけ、本当に止まった。
ローリエはそれを見た。
行動不能。
おばあちゃんの言葉はなかった。
でも、店で見た一撃と、さっき自分が聞いた音の違いから、なんとなく分かっていた。
欲張って、詰めすぎて、順番を失うと、手元で止まる。
今だ。
ローリエは最後の一打を入れた。
強くない。
大きくもない。
ただ、正しい順番で押した。
土がチョウの足元を浅くすくい、遅れて細い衝きが膝の裏へ入る。
「うぐっ」
チョウの体が前へ崩れる。
片膝をつき、次に両手を土についた。
落ちたそろばんが横で乾いた音を立てる。
空き地が静かになった。
用水路の水だけが、石へ当たり続けている。
ローリエは息を吐いた。
吐いてから、自分がずっと息を詰めていたのに気づいた。
手の中のそろばんはまだ少し熱い。
いや、熱いのは手の方かもしれない。
指先の震えが遅れて戻ってくる。
勝った。
たぶん。
たしかに。
けれど、胸の奥はすっきりしていなかった。
嬉しいより先に、まだ何かが残っている。
チョウは顔を上げなかった。
舌打ちだけが土へ落ちる。
「……くそ」
その声に力はない。
ローリエは前へ出て、落ちたビー玉とおはじきを拾った。
水色の玉。
茶色のふち。
それから、別の子のものらしい丸いのも、平たいのもいくつか。
掌の中で、固いもの同士が小さく鳴り合う。
後ろから、子どもたちが近づいてきた。
「それ、ぼくの」
「わたしのもある」
少年がひざまずき、地面に残ったものを見回す。
さっきまでの怖さはまだ顔に残っているのに、手だけはもう先へ出ていた。
ローリエは拾ったものを見分けながら、ふたりの前へ差し出した。
「水色のやつ、これで合ってる?」
短い髪の子がうなずく。
「茶色のふち、これ」
結び目のゆるい髪の子も、うなずく。
けれど、手は出てこなかった。
ローリエは少しだけ首をかしげた。
「ほら」
それでも、ふたりは見上げるばかりだった。
少年が横から言う。
「返してあげなよ」
短い髪の子が、ローリエの手の中の珠を見る。
その目に、さっき泣いていた時とは違う熱があった。
「……お兄ちゃんが持ってる方が、カッコいい」
ローリエは一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「そのまま持っててよ」
「いや、でも、これ」
「取り返したの、お兄ちゃんじゃん」
結び目のゆるい髪の子も、こくりとうなずく。
「そろばんも持ってるし」
「さっきの、すごかったし」
すごかった。
その言葉が、夕方の空き地で少し浮いて聞こえた。
勝ったのに。
取り返したのに。
なのに、胸の奥には、どこか小さく噛み合わない歯車が残る。
持ってる方がカッコいい。
それは、たぶん、子どもらしいまっすぐさだった。
でも、そのまっすぐさが、ローリエの中のどこかにひっかかった。
持っているだけなら。
持っているだけでいいなら。
店のカンカンに入っていた時の珠は、まだただの珠だった。
おばあちゃんが入れて、止めて、はじめて意味が立った。
自分も、さっきやっと少しだけ、そこへ触れた。
持っていることと、使えることは、同じじゃない。
分かっている。
分かっているのに、その言葉をうまく返せなかった。
少年が横から手を伸ばし、水色のビー玉をひとつだけ取った。
「これは返して」
「え」
「さっき、ここで使ってたから」
その言い方で、ローリエは少しだけ救われた。
少年はその玉を掌で転がしてから、年下の子へ渡した。
渡された方は、今度はちゃんと受け取る。
ぎゅっと握って、でもすぐにはポケットへしまわない。
手の中に置いたまま、ひかりを見ている。
「ほかのは」
ローリエが言うと、短い髪の子が少しだけ笑った。
「持ってて」
「なんで」
「またあいつ来たら、いるでしょ」
その答えに、ローリエは黙った。
必要とされているのか。
飾りにされているのか。
その境目が、まだ分からない。
チョウが後ろで体を起こした。
完全には立ち上がれない。
けれど、止まっていたしびれは少しずつ抜けてきているらしい。
土のついた手で口元をぬぐい、そろばんを拾う。
ローリエがそちらを見ると、チョウは目をそらさなかった。
細い目の奥に、さっきまでの軽さはもうなかった。
代わりに、負けた苛立ちと、まだ消えていないいやらしさが薄く残っている。
「……坊ちゃん」
声が少し掠れていた。
「ちゃんとやるんだな」
ローリエは返事をしなかった。
チョウは立ち上がる。
膝についた土を払う。
でも、完全には払えない。
上着の裾に広がった汚れが、そのまま夕方の色へまざる。
「今日はいいや」
その言い方が、負け惜しみなのか、本心なのかは分からなかった。
ただ、逃げる足だけは早かった。
用水路の縁を避け、今度はちゃんと広い方の道へ出る。
背中が細くなり、灰色の裾が遅れて揺れる。
角を曲がる手前で一度だけこちらを振り返り、それから消えた。
空き地には、ようやく息をしやすい空気が戻ってきた。
年下の子が、へたりこむように座った。
「こわかった……」
少年がその肩を軽くたたく。
「もう行った」
短い髪の子は、ローリエのそろばんを見ていた。
まっすぐ見ている。
羨ましいのとも、尊敬とも、まだ少し違う。
ただ、さっきまで遊び道具だったものと、今、手の中で意味を持っているものとを、うまく結びつけられない顔だった。
ローリエはそろばんの珠を見下ろした。
さっき自分が入れた位置。
止めた場所。
弾いた順番。
まだ残っている。
勝った形は、枠の中にそのまま残る。
それは少しだけ、古い機械で移植を成功させたあとの画面に似ていた。
ちゃんと動いた。
でも、本当にこれで合っているかは、しばらく見ていないと分からない。
「……使えるんだ」
ローリエの口から、独り言みたいに落ちた。
少年が聞き返す。
「なにが」
「いや」
言いかけて、やめた。
使える。
たしかに使えた。
でも、それを言葉にした瞬間、どこかで軽くなる気がした。
まだそんなふうに言い切るほど、自分の手になっていない。
短い髪の子が、また言った。
「やっぱ持っててよ」
ローリエは掌の中の珠を見た。
返すべきだ。
たぶん。
でも、返せばそれで終わる感じもした。
この子たちの輪から奪われたものを、ただ元に戻すだけでは、何かが足りない気もした。
何が足りないのかは分からない。
ただ、すっきりしない。
「じゃあ」
ローリエは言った。
「預かるだけ」
ふたりが同時に顔を上げる。
「また使う時、返す」
短い髪の子が少し考えてから、うなずいた。
結び目のゆるい髪の子も、そのあとでうなずく。
少年だけが、少しだけ笑った。
「変なの」
「そうかも」
ローリエも少しだけ笑った。
空き地の空は、もう少しで夕方へ落ちるところだった。
倉庫の影が長くなり、土の上の割れ目をゆっくり食っていく。
用水路の水は変わらず細く流れ、草の先ではさっき切られた葉が一枚だけ引っかかっていた。
ローリエは珠を紙袋へ戻した。
ラムネとぶつかって、小さく鳴る。
その音が、さっきまでとは少し違って聞こえた。
ただの買い物の帰り道では、もうない。
少年が地面のおはじきを拾い集める。
年下のふたりも、それを手伝う。
輪は崩れたままだが、もう一度置き直そうとしているのが分かる。
ローリエはかばんを肩へかけた。
「また来るかも」
そう言うと、少年が顔を上げた。
「その時も来てくれる?」
問いは軽い。
でも、土の上へまっすぐ置かれたみたいに聞こえた。
ローリエは少しだけ間を置いてから、うなずいた。
「近くにいたら」
短い髪の子が口を尖らせる。
「絶対じゃないの」
「絶対って言うと、たぶん失敗するから」
少年が吹き出す。
「変なの」
「たぶん、そういうとこだよ」
自分で言って、少しだけおかしかった。
そろばん教室でも、部活でも、最初から全部を言い切るとうまくいかないことがある。
順番を見て、動いて、合っていたら次へ行く。
それを繰り返すしかない。
今日も、たぶんそうだ。
チョウを止めた。
でも終わってはいない。
勝った。
でも、それだけでは収まりきらない。
力は、ただ出せばいいわけじゃない。
持っていればいいわけでもない。
じゃあ、なんなのか。
まだ分からない。
分からないまま、ローリエは空き地を出た。
坂へ戻る前に、一度だけ振り返る。
子どもたちはもうしゃがみこみ、さっきの輪を作り直していた。
今度は少しだけ狭く、でも前より丁寧に置いている。
見えない順番が、そこに戻っていく。
ローリエはそれを見てから、坂を上がり始めた。
紙袋の中で、珠が鳴る。
かばんの中で、そろばんが揺れる。
指先にはまだ、止めた場所の感触が残っていた。
上から。
下から。
そこで止める。
それだけのはずなのに、帰り道の風は来た時と違う。
勝ったのに、胸はきれいに晴れなかった。
その曇りが悪いものなのか、次の何かなのかも、まだ分からないまま、
坂の町は少しずつ夕方の色へ寄っていった。
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