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#心霊
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港へ下る石畳は、雨を吸って黒く光っていた。潮の匂いの中に、濡れた木箱と鉄の匂いが混じる。ディアビレは肩で息をしながら、岸壁の手前でようやくジナウタスの背中を見つけた。
傘も差さず、街灯の下に立っている。紺の上着はすっかり色を濃くし、前髪の先から雫が落ち続けていた。
「何してるんですか」
呼びかけると、彼は少しだけ振り向いた。その顔がいつもより静かで、ディアビレは胸の奥をつかまれた気がした。
「冷やしに来ただけだ」
「頭をですか、気持ちをですか」
「両方かもしれない」
いつものように軽く返せない声だった。ディアビレは返事の代わりに、自分が持ってきた傘を開き、彼の方へ半分押し出した。
「濡れたままだと風邪を引きます」
「おまえが濡れる」
「半分なら平気です」
二人で一つの傘に入ると、急に距離が狭くなる。肩先が触れそうで触れない。雨粒が傘布を叩く音だけが近い。
しばらく黙ったあと、ジナウタスが低く言った。
「母はこの町が好きだった。面倒で、不器用で、でも朝になると海だけはきれいだって、よく笑ってた」
ディアビレは何も挟まずに聞いた。
「創業家の名があれば守れると思ってた時期もある。けど実際は、その名のせいで壊れるものも多かった。俺はそれが嫌で離れたし、戻ってきても名乗れなかった」
雨の向こうに、ホテルの明かりがにじんで見える。あそこには眠れない客も、黙って働く人も、母の店の匂いも残っている。
ディアビレは傘の柄を握り直した。
「嫌いになれなかったんですよね。この町も、あのホテルも」
ジナウタスは小さく笑った。認めるのが悔しい人の、短い笑いだ。
「……そうだな」
「じゃあ」
ディアビレは彼を見上げた。街灯に照らされた横顔は、いつもより少しだけ疲れている。
「逃げないでください」
その一言に、ジナウタスの目がゆっくりこちらを向いた。雨音の中で、その視線だけがはっきり熱を持つ。
「おまえに言われると、逃げにくい」
「そういうつもりで言いました」
ようやく彼が息を吐く。肩の強ばりが、ほんの少しほどけた。
傘の下は狭いのに、不思議と息はしやすかった。