テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
二十九階層。
トロールの亡骸から少し離れた、なだらかにくぼんだ地面に、四人は小さな野営地を切った。
焚き火が夜の森をゆっくり照らす。
梢のあいだから覗く星は遠い。風が葉を揺らすたび、足元の明暗がかすかに動いた。
ミラはひとりずつの前に膝をつく。
胸元のネックレスをきゅっと握り、祈りの言葉を短く紡ぐ。淡い光がふわりと立って、身体の上をすべっていく。
光が引くのを見届けて、ダリウスはゆっくり上体を起こした。
頭に手をやり、肋骨をなぞり、肩を確かめる。息を一つ落とす。
「もう大丈夫だ、ミラ。……ありがとう」
いつものように、少し照れた笑みを添えて。
隣でオットーは仰向けのまま、腹の奥から大きく息を吐いた。
「俺もだ。助かった」
膝には鈍い違和感が残る。だが、さっきまでの地獄みたいな痛みを思えば、今は耐えられる。
「よかった……ほんとによかった……」
ミラはネックレスを握ったまま胸の前で手を組み直す。
安堵と疲労が一気に来て、目尻がほんの少しだけ潤んだ。
焚き火の向こうから、エドガーが歩み寄ってくる。
加護の光が消えたあと、赤い火が静かに揺れていた。
エドガーは魔導書を閉じ、膝の上にそっと置く。
ちらりとオットーを見かけて——すぐ視線を外し、焚き火の向こうを眺めるふりをしたまま言った。
「オットー。あなたの盾、前に出すぎかもしれませんね。……あまり無茶はしないようにしましょう」
声音はいつも通りの皮肉混じり。
けれど、口元の微笑だけは柔らかかった。
オットーは寝転んだまま、同じようにエドガーから目をそらす。
夜空を仰ぎ、片方の口角だけを上げた。
「そうだな。……お前の魔法がなかったら、今回もやばかったぜ」
それだけ。
謝りもしないし、「ありがとう」とも言わない。
けれどその短いやり取りの中身を、二人ともよく知っていた。
“もういい”“気にしてない”“頼りにしてる”——そういう言葉を、互いに飲み込んだうえでの、ぎこちない落としどころだということを。
エドガーは小さく息を吐き、肩の力を抜く。
オットーもまた、胸の上で腕を組み直し、どこかほっとしたように目を細めた。
長い年月、何度も喧嘩して、何度も同じようなやり取りを繰り返してきた。
正面から謝ったり、涙ながらに抱き合ったりするような性格ではない。
焚き火を挟んで、二人はほんの一瞬だけ視線を交わし、そろって小さく鼻を鳴らした。
それでも、わかる。
背中を預けて良い相手かどうかなんて、もうとっくに答えは出ている。
ふと、エドガーが夜空を見上げた。
「……今日は、少し冷えますね」
葉の隙間に星がいる。濃い闇の裂け目みたいに見えた。
オットーも同じ空を見上げ、鼻を鳴らす。
「あぁ。そうだな」
言葉は続かない。
けれど、さっきまでの冷たい沈黙とは違う。
火の粉が夜へ消える。
森を渡る風が、二人の間をゆっくり通り過ぎた。
伝わるものは、言葉だけじゃない。
——だが、またしても。
「えっ!! 二人、仲直りできたの!!」
ミラの声が、静かな空気を盛大にぶち抜いた。
焚き火の横から勢いよく飛び出してきて、ぱあっと顔を明るくする。
「よかったね!! でもちゃんと謝らなきゃ!! あと仲直りの握手も必要だよ!!」
エドガーとオットーが同時に固まった。
さっきまで抜けていた肩が、いきなりガチガチになる。視線が宙をさまよい、顔が引きつった。
沈黙。
薪の表面が赤く呼吸して、小さく弾けた。
「ミラ!」
慌てて割り込んだのはダリウスだった。
ミラの両肩をがしっとつかみ、そのままぐいっとこちらに向ける。
「空気を読むんだ! 今いい感じだったろ!? すごく、こう……いい感じにまとまってたろ!?」
ミラは不満げに頬をふくらませる。
「読んだよ、ちゃんと読んだよ!? 『あっ、これは仲直りの空気だ!』って思ったから言ったの!」
ダリウスは額を押さえ、その手を顔全体にずり下ろした。
「違うんだ! 根本的に!!」
焚き火の明かりの中、必死に言葉を探す。
「あのままで良かったんだよ……なんていうか、あの“言葉少なめのまま”が正解なんだよ!! あれで仲直りは完了してたんだ!」
「えー!? おかしいよ!」
ミラは全力で抗議する。
「ちゃんと『ごめんね』って言って、『ありがとう』って言って、ぎゅーってして——」
「しない! あいつらはそういうタイプじゃない!!」
ダリウスは思わずオットーとエドガーを振り返った。
焚き火の向こう側で、二人は石像みたいに固まったまま、見事に顔を真っ赤にしている。
視線は合わさない。けれど耳まで赤い。
「だから、仲直りはもう終わっているんだ」
ダリウスはできるだけゆっくり、言い聞かせるように繰り返す。
ミラはダリウスを見つめ、それからオットーとエドガーを交互にちらちら眺めた。
少しの沈黙。
「……わからないけど」
焚き火の前にちょこんと腰を下ろし、膝を抱えてぷいっと顔をそむける。
「……わかったよ」
(……大人って、 仲直りするのも、 難しいんだな)
拗ねた横顔を見て、ダリウスは小さく息を吐いた。
背後で、ようやく動き出したエドガーとオットーが、互いに目を合わせまいとしながら同時に咳払いをした。
焚き火のぱちぱちとした音と、くすぐったい気まずさが、夜の森に溶けていく。
*
ダリウスがしっかり上体を起こせるようになると、いつもの流れで立ち上がった。
「よし……今日は簡単なのでいくか」
袖をくいっとまくり上げる。
次の瞬間、まな板の上で包丁がサクサクと小気味よく鳴り始めた。
スライスされたパンが皿の上に整然と並べられていく。
焚き火の上には小さな鍋が吊るされ、中ではチーズがゆっくりと、とろり、とろりと溶けていた。
熱にあぶられ、表面に小さな泡が浮かんでは消え、ふわりと香ばしい乳脂の匂いが漂う。
「ほら、できたぞ。フォンデュだ」
鍋を軽くゆすり、滑らかなチーズの海を見せるように傾ける。
ミラの目がきらりと光った。
「やった!」
ソーセージを一本つまみ、フォークで刺して鍋へ沈める。
とろとろのチーズがまとわりつき、持ち上げた瞬間——
「わぁ……」
伸びたチーズの糸が、焚き火の明かりを受けて淡く光る。
ミラはそのまま、スライスしたパンの間にソーセージを挟み込んだ。
パンの温もりでチーズはさらに柔らかくなり、じわり、と染み込んでいく。
一口かじると、こんがりと焼けたパンの香りと、塩気の効いたソーセージの肉汁、濃厚なチーズのコクが一度に口の中に押し寄せた。
「……あぁ……幸せ……」
ミラは目を細め、頬をゆるませた。
焚き火のはぜる音とフォンデュの香りが、夜の森に溶けた。
香りがまだ濃い焚き火のそばで、オットーが空になった皿を土の上にそっと置いた。
その動きが静かすぎて、ダリウスは目を上げる。
「……ダリウス。超集中のことなんだが」
顔を上げたオットーの目には、本気の色がある。
ダリウスも手を止め、皿を横へ滑らせた。
「あぁ」
短い相槌に、続きを促す重さが混じる。
エドガーも口元を布でぬぐいながら視線を上げた。
さっきまでの騒ぎの名残を消し、学者と冒険者の眼差しに戻している。
「なぜ今回は、三十秒で切れたんですか?」
ミラだけが一人、パンにチーズをどっぷりつけて幸せそうに頬張っている。
「んぐ……なに? 超集中? おいしい……」
誰も拾わない。焚き火の火だけがぱちぱち繋ぐ。
ダリウスは腕を組み、視線を落とした。
胸の内で、あの瞬間が巻き戻る。
「時間の問題じゃない。……多分、思考のノイズだ」
「ノイズ?」とオットーが眉をひそめる。
「三十秒が来た時に、迷ったんだよ。
このまま斬りきるか、シールドまで戻るか……一瞬だけな」
言い終えて、ダリウスは指先を握り直す。
その瞬間の、足の重さ。呼吸の乱れ。視界の戻り方。身体が覚えている。
エドガーが顎に手を当て、ゆっくりうなずく。
「なるほど。……綱渡りをするような力ですね。
一歩でも踏み外せば、落ちてしまう」
オットーは腕を組み、唇の端を噛んだ。
「だが、あれがなかったら全滅だったのも事実だ。
あのトロール、俺の盾だけじゃ押し返せなかった」
「あぁ、そうだな」
ダリウスは二人の顔を順に見た。
エドガーは慎重で、オットーは実感のある肯定。
「だから——全部自分で考えるのはやめようと思う」
「……どういうことだ?」
オットーが首をかしげる。
エドガーが目を細める。
「役割分担、 ですか」
ダリウスは小さく笑ってから、真剣な眼差しに変えた。
「そうだ。俺が超集中に入る時は、戦闘のことだけを考える。
いつ切るか、押すか引くか——その判断は全部、俺から外に出す」
オットーに視線を固定する。
「オットー。超集中を切るタイミング、それから撤退か押し込むかの判断。
それを、 俺の代わりに頼む」
一拍。
オットーの喉が小さく動いた。呼吸を一つ飲み込んでから返す。
「……おう」
軽口じゃない。腹の底からの返事だった。
ダリウスはエドガーへ視線を移す。
「エドガー。お前には、その間、全体の指示を頼みたい。
俺の代わりに戦場全体を見てくれ。詠唱は、一旦途中で止めてくれ」
エドガーの指先が、膝の上でわずかに震えた。
そのまま魔導書の角を押さえ直す。
「……最適解ですね」
口元が少しだけ上がる。声は迷っていない。
「わかりました。
あなたが前に出るなら、その間は私が“頭”になりましょう」
オットーがニヤリとする。
「これで、 戦術の幅は広がりそうだな」
「えぇ。ようやく、 ですね」
エドガーも笑みを返す。
空気が「いつもの」方向に戻っていく。
「……ねぇ、このチーズ、全部私のお腹に収まってるんだけどおかわりはあるの?」
鍋の底をさらっていたミラが、ほっぺたをふくらませて不満を言う。
ダリウスが吹き出し、エドガーとオットーも同時に肩を揺らした。
焚き火がぱち、と弾ける。
ミラは残り少ないパンをもぐもぐしながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねぇねぇ、その“戦術の幅”ってやつ? オットーって攻撃のスキルはないの?」
焚き火の音が妙に大きく聞こえた。
——一拍の沈黙。
オットーはマグを握ったまま目を伏せる。
ダリウスとエドガーが、ほんのわずかに視線を交わした。ここは掘るな、という合図。
「……」
オットーはわざとらしく肩をすくめ、無理に軽い調子を作る。
「……まぁ、俺はシールドバッシュを極めるために、他のスキルは覚えてねぇんだよ」
焚き火の明かりに浮かぶ横顔には、どこか固さが残る。
「何も問題ありませんよ」
エドガーが、さらりと続ける。
「オットーのシールドバッシュは、もう“異常”の域ですからね。
他のスキルなんて、いりませんよ」
言葉は優しい。
同時に、この先は踏み込むな、と線を引く口調でもあった。
「異常って言うな」
オットーはぼやきながらも、鼻を鳴らす。
マグの取っ手から指だけが離れない。誰もそこには触れない。
ダリウスはぱん、と手を叩いた。
「よし、 今後の方針はここまでだ。今日は早めに寝よう!」
「賛成だ、 身体がもうバキバキだ」
オットーが「よっこらせ」と立ち上がる。背中の丸さが、少し戻った気がした。
ミラは一人首をかしげる。
「……???」
何か隠している。そこまではわかる。
でも、それが「今は笑って流すべき秘密」だということまでは、まだ言葉にできない。
大人たちは、妙にそそくさと寝床の準備に取りかかった。
この話題はここまで。無言でそう決めて、互いに頷き合うみたいに。
#魔法