コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第3話:浮く理由(わけ)
彼は、一度も地面に触れたことがない。
というより、“地面”というものを本当に見たことがある者など、天球にはもういなかった。
—
少年の名はアウリ・フェル。
13歳、浮遊学区〈キノル領域〉に所属。
細く長い手足、銀色の毛糸のような髪が左右に分かれ、
顔の中心には《ソラー社製:気流視覚装置“LUMA-β”》が備わっていた。
“目”を持たない彼にとって、風の震えと音の粒だけが「世界」だった。
浮くことは、価値であり、信仰であり、正義だった。
天球の子供たちは、3歳までに“浮力値”が規定に達しなければ学校に入れない。
重さを感じる言葉や行動は「沈殿症」として治療される。
アウリは優等生だった。
教科書に載る浮遊原理、《エアロハードOS》が支配する浮場(ふわば)の論理も完全に理解していた。
だが、たった一つ、疑問があった。
「なぜ、僕たちは浮かなくてはならないの?」
—
その疑問は《ラスノル記憶局》で起きた、奇妙な事故から始まった。
局内の“補助浮力室”で、ある空間が“沈んだ”のだ。
一時的に地面のような硬い感触が現れ、複数名が「転落の感覚」を訴えた。
アウリはその場に居合わせ、転落する夢のような感触を初めて体験した。
—
《フロートル社》の記録泡によれば、事故の原因は「風配列のエラー」。
つまり浮力を保つ空気の流れが、ソフトの操作ミスで崩れたという。
でも、アウリは気づいてしまった。
事故が起きた場所に、“硬い何か”があったこと。
しかもそれは、記録に残っていない。
—
彼は“地面”を求めて動き出す。
だが、それは禁忌だった。
天球では「沈む」という言葉は、海に堕ちる=死に至る思想に直結している。
月の教えでは、重力とは“古き引力の呪い”とされ、
その象徴として、地球の「G」「↓」「Ω」などの記号は封印紋章として廃墟に祀られていた。
アウリはその廃墟、《ノイグ・グラヴィノート》へ潜り込む。
—
廃墟の中には、**エアロハード社の初期OS“Grav_One”**が眠っていた。
起動すると、音がした。
「記録ファイル:起動。
重力制御:未反映。
状態:元地球圏下層に近似。」
そして、床が震えた。
アウリの身体が、浮かなくなった。
彼は「浮かない」という状態が、
あまりにも静かで、あたたかく、安心できることに気づいた。
「これは……僕の、知らなかった“居場所”だ。」
—
彼は一歩、歩いた。
音がした。
自分の足音だった。
その瞬間、装置は警報を出し、彼は上空へ吹き上げられる。
天球では、“歩く”ことが許されていなかった。
—
翌朝。アウリはすべてを報告せずに、泡文字を一つだけ送った。
「浮くのは正しい。けれど、
僕は“歩いた”記憶を手放したくない。」
泡は空へ昇り、満月の前で弾けた。
月はそれを見ていた。
記録は残らず、彼だけがその意味を知っていた。