テラーノベル
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深夜二時。 遮光カーテンを閉め切った六畳一間のアパートは、まるで巨大な棺桶のようだった。 唯一の光源は、僕の顔を青白く照らすスマートフォンの液晶画面だけだ。網膜に焼き付くようなその光の向こう側、マッチングアプリのトークルームに、一通の通知が灯る。
『今夜も、会いに来てくれる?』
ルナ。僕が世界で一番愛し、そして僕の命を少しずつ啜(すす)り食っている、愛らしい化け物の名前だ。 プロフィールのアイコンは、桃色の髪を指で弄びながら、悪戯っぽく微笑む彼女の自撮り。頭の上には、加工アプリのスタンプのようにも見える、漆黒の小さなツノが二つ。 現代のサキュバスは、古めかしい城の寝室に現れるんじゃない。デジタルの海を漂い、孤独で、誰かに認められたくて堪らない人間の意識を、甘い言葉で「ログイン」させるんだ。
「……ああ。すぐに行くよ、ルナ」
僕は震える指で返信を打ち、スマートフォンの電源を切った。 枕元にそれを置くと、吸い込まれるように瞼を閉じる。 意識が急速に遠のき、重力が消え、泥のような現実の疲れが霧散していく。反転する世界。意識の底へ、底へと、僕は心地よく沈降していく。
「お待たせ、ユウト!」
目を開けると、そこはネオンがまたたく夜の遊園地だった。 観覧車は星空を背景に静止し、メリーゴーランドだけが、どこか悲しげなオルゴールの音を立てて回り続けている。その光の渦の中心で、ルナが短いスカートをなびかせて駆け寄ってきた。
「今日も仕事、大変だった? 顔色が悪いよ。……ねえ、少しだけ『おすそ分け』して?」
彼女が僕の頬に手を添える。その掌は、驚くほど熱を帯びていた。生きている人間よりもずっと高い、情熱的な体温。 サキュバスは、人間の精気を糧に生きる。彼女に触れられるたび、僕の寿命という名の蝋燭(ろうそく)が、不自然な速さで短くなっていくのは分かっていた。最近の僕は、鏡を見るのが怖かった。そこには、生気のない、死神に魅入られたような男が映っているからだ。
でも、それで良かった。 現実の八時間は、ただの労働と妥協、そして孤独の積み重ねだ。けれど、この夢の数時間は、僕にとって唯一の「生」の証明だった。
「君に会えるなら、寿命なんていくらでも持っていっていいんだ。……君が、僕を必要としてくれるなら」
「バカだなぁ……。人間って、本当に救いようがないくらいバカ」
ルナは寂しそうに笑って、僕の胸に頭を預けた。 背中からは、薄いレースのような羽と、ハート型の先がついた尻尾がのぞいている。彼女の心臓の音が、ドクン、ドクンと僕の胸に響く。それは、僕から奪った命が、彼女の中で脈打っている音だ。
「ねえ、ユウト。もし私が、明日からログインしなくなったら……どうする?」
「……未読無視か? 嫌だな、それは。立ち直れないよ。……いや、死ぬまでアプリの画面を見続けるかもな」
冗談めかして言うと、ルナは僕のシャツの胸元をぎゅっと握りしめた。 その指先が、わずかに震えていることに、僕は愚かにも気づかなかった。
「……ごめんね。でも、私……君のことが、本当に……」
言葉の続きは、遠くで鳴り響いた無機質な電子音に掻き消された。 現実世界の目覚まし時計。 残酷な朝が、僕を夢の底から、冷たい現実へと引きずり上げる。
「また、今夜ね」
僕がそう言うと、ルナは何も答えず、ただ泣きそうな顔で微笑んだ。 それが、僕が最後に見た「生きていた」彼女の顔だった。
――目が覚めたとき、部屋はしんと静まり返っていた。 けれど、何かがおかしかった。 いつもなら、夢の残滓(ざんし)と一緒に消えているはずの「重み」が、隣のシーツに残っているのだ。
「……ルナ?」
心臓が嫌な跳ね方をした。 恐る恐る隣を向いた僕の視界に、あり得ない、そして絶望的な光景が飛び込んできた。 夢の中と同じ姿をした彼女が、僕の安物のベッドに横たわっている。 桃色の髪が、湿った枕の上に乱雑に散らばり、小さなツノが窓からの薄暗い朝日を浴びて鈍く光っていた。
僕は震える手で、彼女の肩に触れた。
「おい、冗談だろ……? なんでここにいるんだよ。サプライズにしては、出来が悪すぎるぞ」
指先から伝わってきたのは、夢の中のあの熱い体温ではなかった。 冬の朝の、結露した窓ガラスよりも、ずっと、ずっと冷たい。 まるでお気に入りのフィギュアか、精巧に作られた人形に触れているような――命の気配を一切拒絶する、絶対的な「無」。
「……ルナ? 起きろよ。おい、返事しろよ! 目を開けろ!」
何度揺さぶっても、彼女の頭は力なく揺れるだけだった。 彼女の指が、死後硬直のような強さで握りしめていたのは、僕のスマートフォン。 画面はついたままで、メモ帳が開かれていた。
そこには、震える文字で、たった一行だけが打ち残されていた。
『ごめんね。もう、吸えないよ。……あなたのことが、大好きになっちゃったから』
僕の体は、嘘みたいに軽かった。 昨日まであれほど鉛のように重かった四肢には、力が溢れている。 失われていた活力が、彼女の「死」と引き換えに、すべて僕の中に還ってきたのだ。
彼女は、自分を維持するために僕の命を奪い続けることが、耐えられなかったんだ。 僕を救うために、彼女は「食べる」ことをやめた。 サキュバスにとって、それは自らの存在を消す「自死」を意味するのに。
「嫌だ……。こんなの、望んでない……! ルナ、戻ってきてくれよ!」
僕は彼女の冷え切った身体を抱きしめ、既読になるはずのないトークルームに、何度も、何度もメッセージを送り続けた。 スマホが「バッテリー残量が少なくなっています」と無機質な警告を出し、その光が消えてしまうまで。
部屋には、止めるのを忘れた目覚まし時計の、乾いた音だけが響き渡っていた。
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