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※帰る朝の別バージョン。
部屋の隅に置いたバッグが、やけに重く見えた。
目が覚めた瞬間から、胸の奥で「終わり」の音が鳴っていた。
今日でここを出なければならない。日下部の家で過ごす猶予は、もう尽きた。
「……起きたか」
日下部の声が、台所の奥から聞こえる。
遥は返事もせず、布団から起き上がる。
身体の痛みは、少しだけ和らいでいた。殴られた箇所も、擦り傷も、熱っぽい重さも。
でも、代わりに、別のものが増えていた。
「何もされない」ことへの、強烈な不安。
日下部の家では、誰も命令しなかった。怒鳴られなかった。
あざける目も、笑う声も、手も足も──なかった。
なのに。
心の中は、どんどん削られていった。
「……今日で帰るんだろ?」
食卓に座った遥に、日下部がぽつりと投げかける。
「……ああ」
返事はしたが、声が震えていた。
「家、戻るしかねぇんだよ。他に……行くとこ、ねぇし」
「学校は?」
「行く。……帰ったら、また“怒られる”からな」
苦笑のようなものが喉で詰まる。
あれだけ嫌だった学校も、もうどこにいても同じだと思える。
どこにいたって、殴られて、命令されて、モノ扱いされて──
……なら。
「オレ、今日から行かねぇわ」
突然の日下部の言葉に、遥は顔を上げる。
「は?」
「休むだけ。あの空気、飽きた」
「……勝手にしろよ」
投げるように言って、遥は立ち上がる。
でも、足が止まる。
「……オレ、ここ出てったら、また“戻る”しかねぇ」
背中を向けたまま、低く言った。
「わかってる。なのに……怖いんだよ。今が終わるのが」
沈黙。日下部は、何も返さない。
「……この一週間、何もされなかった。殴られなかったし、命令もされなかった。
なのに──それが、なんでこんなに怖いんだよ」
声が、震えていた。
情けないとも思わなかった。もう、感情がどこにあるのかわからない。
「わかんねぇよ、もう。……痛くされる方が、まだ“正気”でいられた」
日下部は振り向かない。
遥もそれ以上、言葉を継げなかった。
それが、彼らに許された最後の“朝”だった。