テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
於田縫紀
7
第1話 富士見宿
富士山を見るためだけに泊まる。
磁馬は宿場町の入口で、そう決めた。
道の向こうに、富士山が見えていた。
大きくて、遠い。
近づけそうで、近づけない。
旅人の背中の上に、静かに乗っているようにも見えた。
宿場町は夕方に向かっていた。
馬の足音。
草履の音。
荷を下ろす声。
茶店から流れる湯の匂い。
磁馬は肩掛け鞄を押さえ、ゆっくり歩いた。
鞄の奥には、旅費が入っている。
画家オークションでもらった金額を、
磁馬はうまく数えられなかった。
自分の絵に値がつくことは、
まだ少し落ち着かない。
でも、
それで旅ができるなら、
まあいいかと思った。
高い料理でも、
立派な宿でもなく。
富士山が見える部屋。
それだけでよかった。
「泊まりかい」
旅籠の前で、丸い顔の男が声をかけた。
茶色の羽織。
腰の帳面。
声は明るい。
磁馬は富士山を指した。
「あれが見える部屋はある?」
男はにやりと笑った。
「あるとも。うちは富士見宿だからな」
「じゃあ、泊まる」
「荷は少ないねえ」
「描くものは多い」
男は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「変わった旅人だ。俺は佐平だ」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいな名だな」
「よく言われる」
佐平は宿の中へ案内した。
廊下は少しきしむ。
畳の匂いがする。
奥から湯気と味噌の匂いが流れてくる。
女の子が盆を持って通りかかった。
茶色の前掛け。
後ろでまとめた髪。
歩き方が軽い。
佐平が声をかける。
「おつね、富士が見える部屋へ」
「はい」
おつねは磁馬を見て、少し頭を下げた。
「こちらへ」
磁馬はついていく。
階段を上がり、細い廊下を曲がる。
部屋の戸を開けると、窓の向こうに富士山があった。
磁馬は動かなくなった。
おつねが少し笑う。
「見えますか」
「見える」
「よかった」
磁馬は部屋の真ん中に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
夕方の富士山は、
少し遠くで息をしているようだった。
ふもとの色は沈み、
輪郭だけがゆっくり濃くなる。
磁馬は鞄を下ろした。
「ここに泊まっていい?」
おつねは目を丸くした。
「もう泊まることになってますよ」
「あ、そうか」
おつねは笑いをこらえた。
「お茶をお持ちします」
「ありがとう」
おつねが部屋を出る。
磁馬はすぐにスケッチ帳を開いた。
ペンを出す。
小銭袋を出して、すぐにしまう。
訳機を奥へ押し込む。
旅費袋を確認する。
一つ。
二つ。
三つ。
ある。
磁馬は窓辺に座った。
富士山を描く。
まず、遠い線。
次に、手前の屋根。
宿場町の道。
旅人の笠。
茶店の煙。
富士山だけを描くつもりだった。
でも、富士山はそれだけで立っていない。
見る人。
泊まる宿。
通る馬。
夕飯の匂い。
全部で、富士山が富士山になる。
磁馬は線を重ねた。
おつねが茶を持って戻ってきた。
「もう描いてるんですね」
「うん」
「富士山だけ?」
「富士山のまわりも」
おつねは窓の外を見た。
「毎日見てると、普通になります」
「普通は強い」
「強い?」
「毎日あるものは、なかなか消えない」
おつねは少し考えた。
「でも雲で隠れますよ」
「隠れても、ある」
おつねは湯のみを置いた。
「変なこと言う人ですね」
「よく言われる」
その時、廊下の向こうから佐平の声がした。
「飯はあとでな。富士見の客には、山芋と川魚だ」
磁馬の腹が小さく鳴った。
おつねは聞こえたらしく、口元をゆるめた。
「先に団子を持ってきましょうか」
「いいの?」
「夕飯までもたなさそうなので」
磁馬は少しだけ遠慮した顔をして、
すぐにうなずいた。
「お願いします」
おつねは小さく笑って部屋を出た。
磁馬は茶を飲み、
また富士山を見た。
遠い山。
近い宿。
その間に、夕暮れが横たわっている。
ペンはゆっくり動いた。
けれど、
絵の中の富士山は、
現実より少しだけ早く夜へ向かっていた。
山の輪郭が深まり、
宿場町の灯りが先に点る。
磁馬は手を止めた。
「早いな」
絵の中では、
宿の窓に明かりがともり、
旅人が戸をくぐり、
道の影が伸びていく。
現実では、まだ夕暮れの途中だった。
おつねが団子を持って戻ってきた。
「どうしました?」
磁馬は絵を見せた。
おつねは息をのんだ。
「夜になってる」
「絵の中だけ」
「まだ外は明るいのに」
「富士山が先に眠いのかも」
おつねは困ったように笑った。
「山が眠いって」
磁馬は団子を受け取った。
甘いたれが少しかかっている。
一口食べる。
「うまい」
おつねは満足そうにした。
「佐平さんが焼きました」
「うまい」
「二回言いましたね」
「うまい時は二回言う」
おつねは笑った。
夜になる前に、
磁馬は宿の外へ出た。
富士山を別の場所から見たかった。
おつねが案内してくれた。
宿場町の端に、小さな高台があった。
そこからは屋根越しに富士山が見える。
夕暮れはさらに深まり、
道には灯りが点き始めている。
佐平もあとから来た。
「ここが一番よく見える」
磁馬はうなずいた。
「いい場所だ」
「だろう。だから富士見宿だ」
佐平は得意そうに胸を張った。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
風が吹く。
ページがめくれる。
磁馬は慌てて押さえた。
その拍子に、
旅費袋が鞄の口から少し顔を出した。
磁馬はすぐに押し込んだ。
「危ない」
おつねが言った。
「落とし物しそうですね」
「よくする」
佐平が笑った。
「それは困るな」
「落としたら、見つかるまで帰らない」
おつねが目を丸くする。
「本当に?」
「うん」
「旅人なのに?」
「旅人だから」
佐平は腕を組んだ。
「なら、うちの宿の物も落とすなよ」
「気をつける」
「気をつけるだけかい」
「かなり気をつける」
おつねが笑った。
磁馬は富士山を描いた。
高台から見る富士山は、
部屋から見るより少し広い。
宿場町の屋根。
道を行く旅人。
馬の背。
茶店の煙。
富士山。
線を引く。
現実の夕暮れと、
絵の中の夜が、
少しずつ重なっていく。
おつねはその様子を見ていた。
「絵のほうが先に夜になるんですね」
「うん」
「朝も先に来ますか」
磁馬は少し考えた。
「たぶん」
「見たいです」
佐平が言う。
「じゃあ明日の朝も描いてもらうか」
磁馬は富士山を見た。
「泊まったからには描く」
「描くために泊まったんだろう」
「うん」
「いい客だ」
その夜、磁馬は宿の夕飯を食べた。
山芋。
川魚。
味噌汁。
漬物。
どれも素朴で、温かかった。
磁馬は一口ごとに目を細めた。
佐平が笑う。
「そんなにうまいか」
「うまい」
「じゃあ追加するか」
「いいの?」
「旅費はあるんだろう」
磁馬は少しだけ考え、
鞄を押さえた。
「ある」
「なら食え」
磁馬は追加の飯をもらった。
おつねは横で、
食べっぷりに少し驚いていた。
「画家さんって、もっと小食かと思ってました」
「描くと腹が減る」
「富士山描くと、もっと?」
「かなり」
佐平は大きく笑った。
夜、部屋へ戻ると、
富士山はもう見えにくくなっていた。
けれど、
そこにあることはわかる。
磁馬は窓辺に座り、
昼の絵を見た。
絵の中では、
富士山の向こうに朝の気配が始まっていた。
まだ現実は夜。
でも絵の中だけ、
山の端が少し明るくなりかけている。
磁馬はペンを持たず、
それを眺めた。
旅費を得たから、
ここへ来た。
でも、
旅費がなくても、
いつか来ただろう。
富士山を描くためだけに泊まる。
そういう寄り道ができることが、
磁馬には少しうれしかった。
翌朝。
おつねが戸を叩くより先に、
磁馬は起きていた。
窓辺で、
もうスケッチ帳を開いている。
富士山は朝の中にいた。
まだ町は静かで、
宿場の道も眠りから戻りきっていない。
けれど山は、
すでにそこにあった。
磁馬は描いた。
朝の富士山。
屋根に残る露。
湯を沸かす煙。
起き出す旅人。
掃き掃除をするおつね。
帳面を見ている佐平。
絵の中では、
朝が少しずつ進んだ。
現実よりも早く、
道に人が増えていく。
宿の戸が開く。
旅人が出る。
おつねが見送る。
佐平が声を張る。
そして富士山だけは、
どの時間にも同じように立っていた。
おつねが部屋へ来て、絵を見た。
「もう昼みたい」
「絵の中は早起き」
「富士山は?」
「ずっと起きてる」
おつねは窓の外を見た。
「毎日見てると普通なのに、こうやって見ると、ちゃんとすごいですね」
磁馬はうなずいた。
「普通は、たまにすごい」
朝飯のあと、
磁馬は宿を出る準備をした。
鞄を閉じる。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
旅費袋。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
佐平が帳面を持ってきた。
「また泊まりに来い」
「うん」
「富士山は逃げない」
「でも、見え方は逃げる」
佐平は少し笑った。
「それなら追いかけに来い」
おつねは玄関で、
小さな包みを差し出した。
「団子です。道中に」
磁馬は目を丸くした。
「いいの?」
「昨日、あんな顔で食べてたので」
「ありがとう」
磁馬は両手で受け取った。
それから小さな紙を二枚出した。
一枚は、富士見宿の絵。
窓辺から見える富士山。
夜へ進む宿場町。
明け方へ向かう山。
もう一枚は、おつねと佐平の絵。
玄関で旅人を見送る二人。
背後に宿ののれん。
遠くに富士山。
おつねは絵を見て、息を止めた。
佐平は黙って眺めた。
絵の中で、
宿場町の時間がゆっくり進んでいた。
夕方になり、
夜になり、
朝になる。
でも富士山は、
何度見てもそこにある。
「こりゃ、宿の宝だな」
佐平が言った。
おつねは絵を胸に抱えた。
「飾っていいですか」
「うん」
磁馬は草履を直し、
宿の前へ出た。
富士山が見える。
昨日と同じようで、
昨日とは違う。
磁馬は振り返った。
佐平が手を振っている。
おつねも小さく手を振っている。
磁馬も手を振った。
団子の包みを鞄に入れる前に、
しっかり別の布で包む。
落とさないように。
鞄の留め具を確かめる。
一つ。
二つ。
三つ。
大丈夫。
磁馬は宿場町の道を歩き出した。
富士山を描くためだけに泊まった。
でも、
描いたのは富士山だけではなかった。
宿の匂い。
団子の甘さ。
おつねの足音。
佐平の声。
朝の湯気。
夕暮れの屋根。
富士山を見るために泊まると、
富士山のまわりのものまで、
全部見えてしまう。
磁馬はそれが、
とてもいいと思った。
鞄の中で、
富士見宿の絵が静かに時間を進めていた。
夕方から夜へ。
夜から朝へ。
朝からまた、旅立ちへ。
富士山だけは、
どの時間にも、
遠くで変わらず立っていた。
コメント
1件
え〜!!めっちゃ良かった😭💕 磁馬くん、富士山見るためだけに来たのに、結局宿の人とか町の空気とか全部描いちゃうの、すごくわかる〜!!「富士山だけじゃなくて、その周りも全部で富士山になる」って台詞、エモすぎてもう… おつねちゃんと佐平さんの優しさも沁みたし、団子二回「うまい」って言うところも含めて、この宿が好きになりました。最終回って雰囲気じゃなかったけど、続きが気になる〜!!✨