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九月に入る少し前、朝風通りに地方紙の記者がやって来た。細い坂を上がってくる間にも、通りの店をきょろきょろ見ていて、観光客というより、何かを探しに来た人の顔をしている。
その情報を最初に持ち込んだのはドゥシャンだった。
「記者さん来た! 首から札ぶら下げてる! 絶対そう!」
「あなたも札はぶら下げています」
ジョンナが言う。
「俺のは神社の手伝い札!」
花屋の中が一瞬でざわついた。
ノイシュタットは髪を整え始め、アンネロスは焼き菓子の棚を直し、エフチキアは床の水跡を拭く。ハヤだけが、反射的に裏の倉庫へ逃げようとした。
「待ってください」
オブラスがすぐ声をかける。
「まだ何を聞きに来たか分かりません」
「だから隠れます」
「理屈が逆です」
けれど、ハヤはもう半歩下がっていた。取材と聞くだけで喉が狭くなる。誰かに見られるのは苦手だ。まして名前を訊かれるのは、もっと苦手だった。
店先に、軽いノックの音がした。
「すみません、霧守日報です。最近の朝風通りの動きを取材したくて」
やわらかい女性の声だった。
ノイシュタットがすかさず前へ出る。
「ようこそ。花と菓子と少々の騒動で町を動かしている店です」
「自分で言わないでください」
アンネロスが小声で刺す。
記者は三十代くらいの女性で、肩に布の鞄を提げ、メモ帳をすでに開いていた。彼女は店先の一輪包みや説明札、奥に積まれた祭り用の道具を一通り見てから、花の横に差してある小さな札を手に取った。
「これ、いいですね」
その一言で、ハヤの足が止まる。
「花の名前だけじゃなくて、置き方とか香り方とか、暮らしの言葉で書いてある」
記者は札を読み上げた。
「“朝のうちに水を替えると、暑い日でも機嫌がいい”。この書き方、好きです」
ハヤは倉庫の陰から出るに出られなくなった。
エフチキアが悪気なく言う。
「それ、ハヤさんが書いたんです」
「エフチキアさん」
小さく止めたが、遅かった。
記者の目がこちらへ向く。
「書いた方、いらっしゃるんですか」
ハヤは本気で物陰に戻りたくなった。
けれど、ここで逃げたら、きっと後で全員に見透かされる。そう思って、ぎこちなく一歩だけ前へ出た。
「あの……私です」
声が思ったより小さい。
記者はにこやかに会釈した。
「少しお話を伺ってもいいですか」
ノイシュタットが横から割り込みかけたが、アンネロスに脇腹をつつかれて黙った。
質問は派手なものではなかった。どうしてこんな札を書き始めたのか。花屋で何を担当しているのか。祭りと店をどうつなげたいのか。ハヤは一つ答えるたび、自分の声が少しずつ落ち着いてくるのを感じた。
「花のことを、難しい言葉じゃなくて渡したくて」
「渡したくて?」
「はい。家に持って帰ったあとも、困らないように」
記者は何度も頷き、メモを取っていく。
「いいですね。売るための言葉というより、一緒に持ち帰れる言葉だ」
その表現に、ハヤは少し驚いた。自分がしていたことを、そんなふうに言ったことはなかったからだ。
取材の終わり際、記者はメモ帳を閉じて笑った。
「最後に、お名前を確認してもいいですか」
その瞬間、店の空気が変わった気がした。
ハヤの喉がきゅっと閉まる。
ノイシュタットも、エフチキアも、アンネロスも、誰も口を挟まない。ただ見ている。助けないかわりに、逃げ道も塞がない、そんな沈黙だった。
ハヤは答えを口の中で一度転がした。
まだ言わないままでもいられる。けれど、その場をやり過ごしたとしても、もう前みたいには戻れないことも分かっていた。
記者は急かさず、待っていた。
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