準備は整った。
俺は徳田社長と共に、取締役会の開かれるT&Nホールディングスのエントランス奥、エレベーターホールにいた。
午前八時四十分。
エレベーターホールは出社した社員でひしめき合っていた。
ここ数か月の社内の不祥事や良からぬ噂は、末端の社員にも知れ渡っていた。だから、本社に現れた俺や徳田社長を見て、社員たちは息を呑んでいた。自分の勤める企業の行く末は、誰もが興味を持ち、不安を覚える。
一階に到着した空のエレベータに俺と徳田社長が乗り込むと、他の社員たちは遠慮した。
『気にせずに乗ってください』
いつもの俺ならば、そう言った。
けれど、今朝はあえて言わなかった。
「お気遣い、ありがとう」
そう言って、俺は〈閉〉と十二階のボタンを押した。
エレベーターが上昇を始めてすぐに、徳田社長がニヤけていることに気がついた。
「なんですか?」
「いや、わかってきたなと思ってさ」と言って、徳田社長がネクタイを締め直した。
「威厳、つーの? いい意味でさ」
「そう見えたなら良かったです」と言って、俺も自分のネクタイをもう一度締め直した。
「内心は、ナメられてたまるか、って必死ですから」
「その意気だ」
俺と徳田社長が一番乗りだった。
会議室のドアを開けると、見慣れた顔が揃っていた。
庶務課のみんな。
「おはようございます!」と、斉川さんが一番に言った。
他のみんなもすぐに挨拶を口にした。
テーブルにペットボトルのお茶とミネラルウォーター、グラスをセッティングしていたようだ。
「おはよう」と、徳田社長が言った。
「おはようございます。早くからご苦労様です」と、俺は言った。
「すみません。すぐに終わりますので……」
斉川さんが急ぐように部下に指示をして三分ほどで、作業を終えた。
「お待たせしました」
会議室を出る春田さんと目が合った時、彼女が何か言いた気に見えた。
『成瀬さんは……お元気ですか?』
ふと、慰労パーティーでの春田さんの言葉を思い出した。
「春田さん」
俺が呼び止めると、春田さんと春田さんのためにドアを開けて待っていた満井くんが、振り返った。
「近々飲みに行こう」
「え……?」
「満井くんと……、咲と」
咲の名前を聞くや否や、春田さんの表情がパアッと明るくなった。
「はい!」
ペコッと頭を下げて、春田さんと満井くんは会議室を出て行った。
「美味い酒を飲むためにも、今日は気張るぞ」
「はい」
会議室のドアが開き、取締役が続々と現れた。前回の取締役会後から、俺が徳田社長のそばにいることは誰もが知っている。それをよく思っていない人は、挨拶どころか目も合わさなかった。つまり、内藤社長側ということだ。
「久し振りだね、蒼」
和泉兄さんは慎治おじさんと一緒だった。
「プロジェクトの認可、おめでとうございます」
和泉兄さんのプロジェクトが無事に金融庁の認可を得たことは、テレビでも速報でテロップが流れた。
「ありがとう」
「しばらくはプロジェクトが忙しくて、フィナンシャルを離れられないようだな」
充兄さんが言った。
「充こそ、開発と建設との共同プロジェクトが忙しそうじゃないか」
和泉兄さんが言った。
仲がいいのか悪いのか……。
和泉兄さんと充兄さんが無言で火花を散らしている間に、内藤社長が入室してきた。傍らには、T&N観光専務の大河内豊とT&N開発常務の柿崎良平、そしてT&N観光営業部長の内藤仁。取締役ではない内藤の席を設けられていることは、内藤社長が自分の後任に据えるつもりなのだろう。
俺はため息を堪えて、席に着いた。
午前九時。
今回の取締役会の出席者は、役職付きの三十名と役職なしの俺、内藤、顧問弁護士、筆頭株主の三十四名。
顧問弁護士と筆頭株主、名ばかりで取締役会に姿を現したことのない相談役の顔も名前も、俺は知らなかった。けれど、誰とも挨拶を交わさず、末席に座った五十代後半に見える男性が顧問弁護士であることは、弁護士バッジでわかった。
残る相談役と筆頭株主は、会長の両隣に席を設けられていた。それだけ、影響力があるということだ。今回の取締役会は、相談役と筆頭株主の同意を得られるかが鍵となる。俺も、兄さんたちも、内藤社長も。
内藤社長はよほど勝算があるのか、席に着いてから大河内らと会話を交わしてはいなかった。
会議室内が緊張に包まれる中、会議室のドアが開かれ、会長である父さんが姿を見せた。父さんが会議室に足を踏み入れると、出席者全員が起立して迎えた。
父さんから数歩後に父さんと同年代の男性が続いて入室した。
俺は目を疑った。
あれは……咲のお父さん……?
以前会った時とは服装や雰囲気が違うが、間違いなく咲の父親の成瀬明久さんだ。
どうして……咲のお父さんが……?
俺はハッとした。
『昔、お父さんと仕事をしたことがあってね。君のお母さんも私の妻も元気だった頃は、家族ぐるみでお付き合いさせてもらっていたんだよ』
どうして気がつかなかったんだ——!
俺の母さんが生きていた頃のT&Nはグループ企業ではなく、T&Nファイナンスという小さな投資会社だった。成瀬さんには金融の知識があった。
俺は今ほど自分が無能だと思い知らされたことはなかった。
T&Nの『T』は築島の『T』、『N』は成瀬の『N』だ————!
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!