テラーノベル
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啓介は、印刷所から借りた軽トラックを海鳴り寺の石段の下に止めたまま、しばらく降りられずにいた。荷台には、離れから運び出す予定の空箱と古新聞が積んである。手を伸ばせば仕事は始められるのに、胸の奥には、三日前に刷り直しになったチラシの束がまだ重く沈んでいた。
色を一段、間違えた。たったそれだけなのに、刷り上がった千枚は全部やり直しになった。社長は怒鳴らなかったが、「次は早めに言えよ」と言った。その静かな声のほうが、啓介にはこたえた。
潮の匂いが、石段の上から降りてくる。
海鳴り寺は、海を見下ろす高台にある。子どものころ、啓介はこの石段を何度も駆け上がった。転んで膝をすりむいた日も、母に手を引かれて夕焼けを見た日もある。なのに今日は、見慣れた石の段差まで、どこか他人行儀に見えた。
「すみません、そこ、通れますか」
顔を上げると、段の途中に、巻尺と板を抱えた女性が立っていた。春らしい薄い色の上着に、片側だけずれた大きな鞄。声は柔らかいのに、目の動きは無駄がない。
啓介は慌てて脇へ寄ろうとして、抱えていた紙袋を取り落とした。中から、茶色く古びた札が何枚も滑り出る。
「あっ」
「わ、拾います」
彼女も同時にしゃがみ込み、二人の額が危うくぶつかりそうになる。啓介はあわてて身を引いたが、今度は札を踏みかけた。彼女が手首をひょいとつかみ、「そっちはだめです」と小さく笑う。
その一言だけで、啓介はさらに気まずくなった。
「……すみません。啓介です。寺の手伝いで」
「芽生です。離れの記録を取りに来ました」
札を拾い集めていくと、一枚だけ、他より薄くふやけたものがあった。海水を吸って乾いたように、紙の繊維がけば立っている。表に、にじんだ墨で、ひらがなの「こ」が残っていた。
芽生が息を止める。
「これ、さっき上の廊下で見つかった札ですよね」
「え」
「離れの掃き出しの横に、箱があって。その中に混ざってました」
啓介は札を受け取り、親指でそっと撫でた。冷たい。乾いているはずなのに、指先だけが濡れた気がした。
本堂のほうから、美恵の声が飛んでくる。
「啓介くん、着いたなら働いて。石段で春に負けてないで」
啓介は思わず「はい」と返したが、視線はまだ札に落ちたままだった。
にじんだ「こ」の字が、まるで、何かの始まりだけを残して沈んでしまったように見えた。
#海辺の町
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