「昨日はごめん!」
俺は咲の顔を見るなり、深々と頭を下げた。
「あんなこと、もう二度としない!」
「もう……いいよ」
恐る恐る頭を上げると、咲は顔を伏せて俺に身体を預けてきた。
俺の部屋から帰ってシャワーを浴びたらしく、爽やかな香りがした。
「ホント……ごめん」
「ん……」
俺が咲の背中に腕を回していいものかと迷っていると、咲の方から腕を伸ばした。背中に咲の手の温かさを感じて、俺も咲を抱き締めた。
触れられなかった二週間分の欲求不満や寂しさ、不安、苛立ち、和泉兄さんの言葉、それに酒の力が加わって、昨夜は本当に自分の感情のままに咲を抱いてしまった。咲にしたら、レイプのようなセックスだったかもしれない。それを自覚しているから、目が覚めた時にベッドに咲がいなかったことに恐怖を感じた。
顔も見たくないと言われたらどうしようかと考えると、咲のマンションまでの道のりが息苦しかった。それでも、次に会えるのがいつになるかと思うと、躊躇っている時間はなかった。
それが、拍子抜けするほどあっさりと咲が許してくれて、驚いたような、ホッとしたような、むしろ不安が募るような、複雑な気持ちになった。
しばらく黙って抱き合っていると、腹の音が響いた。
咲だ。
「ごめん……、お腹空いてて……」と、咲が恥ずかしそうに俺から身体を離した。
「そういえば、昨日も店で腹減ったって……」
「昨日は本当に忙しくて、お昼もほとんど食べられなくて……」
ん? もしかして――?
「まさか、腹が減ってて不機嫌だった?」
「えっ⁉ 私、そんなに不機嫌そうだった?」
まさかの反応に、俺は大きく息を吐いた。
「何だよ……。めちゃくちゃビビったんだけど――」
「え?」
「店に来た時、昔の女の話がどうとか、侑にキツイいい方したりとか、すげー不機嫌そうだったから……」と、俺は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「俺もイライラしてあんなことしちゃったし、起きたらいないし、絶対嫌われたと思って焦った――」
「あーーー。ごめんね? 蒼のうちの冷蔵庫、ビールしか入ってないんだもん。お腹は空いたし、服とかメイクもぐちゃぐちゃだしで、タクシーで帰ってきちゃった」
「メモ書いとくとか、メッセ送っとくとかしてよ……」
「ん? メモもメッセもしたよ?」
「え?」
俺と咲は三秒ほど顔を見合わせて、吹き出した。
「これから朝ご飯なんだけど、蒼も食べる?」
「ああ……、腹減った」
色々なことにホッと安心した途端、俺の腹の虫もうなり声を上げた。
久しぶりの咲の部屋に、気持ちが落ち着いた。
「簡単な物しかないけど」と言うと、咲はフライパンを出した。
今日はトーストとコーヒー、目玉焼きにウインナー、コーンのサラダのメニューだった。
咲は本当に腹が減っていたらしく、トーストを三枚も食べた。
咲の意外な一面を知ると、嬉しかった。
「なぁ、咲――」
言いかけた時、咲のスマホがメロディーを奏でた。いつもはヴァイブだから、咲の着メロを聞いたのは初めてだった。
聞覚えはあるが、曲名が思い出せない。かなり古い洋楽であることはわかった。
「はい」
咲が受話器を耳に当てながら、立ち上がった。仕事の電話なのだろう。
「はっ……?」
リビングを出る前に、咲が立ち止まって俺を振り返った。
なんだ……?
咲は俺から視線を逸らさずに、しばらく黙って相手の話を聞いてから言った。
「百合さんは何て?」
相手の言葉に、咲の表情が険しくなっていく。
「やって」
咲のスマホから、相手の大声が洩れ聞こえる。
侑……?
「やれ!」
相手を制止するように、咲が大きな声ではっきりと言い直した。
「リカバリーは私が引き受けるから、とにかく全社ネットワークぶった切れ!」
いつになく、乱暴な物の言い方をした咲が、通話を終えてふっと笑みを漏らした。
察するに、電話での会話はかなり切迫した内容だったはず。大方、トラブル発生で咲はネットワークの切断を指示し、侑がそれを反対し、咲は押し切った。そんなところだろう。
咲が言っていた『騒ぎ』とはこのことか?
電話の後の咲の表情からすると、想定内のことのようだ。
「どうした?」と、俺は聞いた。
この問いに咲が答えるかはあまり期待していない。極秘戦略課の仕事ならば、俺には言わないだろう。
「グループのネットワークにトラブルがあったけど、大丈夫」
咲はスマホをテーブルに置いて、食器を片付け始めた。俺も一緒に食器を台所に下げる。
コーヒーメーカーに保温されていたコーヒーを二つのカップに半分ずつ注いだ。
「電話の前、何か言いかけなかった?」
咲に聞かれて、俺は一瞬だけ考えて、言おうとしていたことと違うことを口にした。
「月曜に取締役会議がある」
「そう……」
やっぱり知っていたか……。
「咲の言っていた騒ぎってこれか?」
「ん……」
咲はそれ以上言わなかった。
長い付き合いではないけれど、最近は咲との向き合い方がわかってきたように思う。
臨時会議の内容を知っていたとしても、咲は話さないだろう。
俺は少しだけ背伸びをして、真さんの真似をした。
「会議の前に、俺が知っておいた方がいいことはある?」
俺の問いに、咲は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに微笑んだ。
「ううん……」
「そうか」
『何も言わないってことは、今は知る必要がないってことだろ』
真さんはそう言っていた。
俺は何も知らない方が、咲には都合がいいってことか。
いや、俺にとっても――か?
いずれにせよ、俺は咲の判断に従うことにした。
「でも……」と咲が続けた。
「考えて欲しい」
「ん?」
「蒼の目指す未来」
「未来?」
咲はカップをテーブルに置いて、座り直した。真っ直ぐ俺を見る。
「蒼がこれからT&Nとどう関わっていくか」
驚いた。
和泉兄さんと充兄さんと同じようなことを、咲から聞かされるとは思っていなかった。
「蒼はT&Nを欲しいと思わないの?」
ストレートに聞かれて、俺は言葉を詰まらせた。
「蒼、考えて。世代交代が近づく今、蒼はT&Nをどうしたいのか。そのために、蒼は何をするのか。そして――」
言いかけて、咲が俺から目を逸らした。
「そして?」
これは、ちゃんと聞かなきゃいけないと思った。
「そして……」
再び俺を見た咲の目は、力強い、獣の目をしていた。
「そして、蒼の目指す未来に、私が必要か」
「どうして――」
どうして、咲まで兄さんたちと同じことを言う……?
それは、聞かなくてもわかった。
きっとこれから起こることは『騒ぎ』なんてレベルの問題じゃない。
T&Nグループを揺るがすような、『大事件』なのだ。
そして、俺は否応なく、決断を迫られるのだろう。
咲のいない未来など考えたくない。けれど、今はそれを言葉にする時ではないような気がして、俺は一言だけ口にした。
「わかったよ……」