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「……うん……大丈夫。急に目眩がして」
ぴくりと震える瞼をゆっくり開き、掠れた声を絞り出した。
「亜紀、体調が悪いのか?」
夫は私の肩へ手を置き、心配そうに顔を覗き込む。
その体温が肩へ触れた瞬間――
私の身体は反射的に夫を拒絶した。
「イヤッ!」
肩が大きく跳ねた。不快感を露わにし、汚れたものを払い除けるように夫の腕を振り払った。
「なっ……何だよ」
夫は目を丸くしたまま、振り払われた手を宙へ残し、言葉を失う。
「亜紀……」
麗香は目を細め、何かを言いかけて、そのまま唇を引き結んだ。
私は夫から目を逸らしたまま黙り込み、小さく肩を震わせる。
「何なんだよ……
おまえ、何かあったのか?」
夫は眉尻を下げ、もう一度私へ手を伸ばそうとした。
「その心カテ、私が受けるわ。
亜紀は朝から体調が悪いのよ」
夫の手が私へ届く寸前、麗香が間へ割って入るように声を上げた。
「朝から体調が悪い?」
「そうよ。
……昨夜は眠れなかったみたい」
麗香は一瞬だけ冷えた視線を夫へ向ける。
そして硬直したまま動けない私を見つめ、静かに深いため息をついた。
白衣を纏う三人の間に、氷が張ったような沈黙が落ちた。
私の肩に重苦しい空気がのしかかる。
「麗香……私、仕事に戻らなきゃ。
まだ病棟回りもできてないし。
……遼、悪いけど今日は麗香にお願いして」
私は麗香にだけ微かな笑みを向けると、夫を避けるように席を立った。
夫は、自分の横を通り過ぎようとする私の横顔を見つめる。
「睡眠不足か。
昨夜も病棟で急変患者の対応をしてたんだってな。あまり無理するなよ。今夜は俺も早く帰るから」
彼らしくない穏やかな声。
その言葉に、微かな笑みが添えられる。
その瞬間、私の瞼がぴくりと震えた。
「病棟の急変患者の対応? 亜紀の患者が?
……誰だろう。病棟からそんな申し送りは聞いてないけど……」
一足先に、麗香が夫の言葉へ首を傾げる。
「そうなのか?
……さっき亜紀を探しに行った時、病棟のナースがそんな話をしてたが……
俺の聞き間違いだったかもな」
遼は眉を寄せる麗香へ視線を向け、何気ない口調で言葉を返した。
私は俯いていた顔をゆっくりと上げ、正面の白い壁を見据える。
「……ううん。
遼の聞き間違いじゃない。
確かに昨夜、ナースにそう言ったの。
『受け持ち患者が急変したから処置してた』って」
壁を射抜くような視線を向けたまま、低く押し殺した声が漏れた。
「ああ、やっぱりそうだよな」
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夫は軽く頷き、テーブルの資料を手に取ると、改めて麗香へ差し出した。
麗香は黙って資料を受け取る。
しかし視線は夫ではなく私へ向けられ、その表情には深い皺が刻まれていた。
「……こんな嘘で墓穴を掘るなんて。
意外とドジな人ね」
喉の奥から、笑いを含んだ声が零れる。
「どこまで私を愚弄したら気が済むの?
あなたも、あの子も……」
張り詰めていた自制の糸が、ぷつりと切れた。
そんな笑みが、ゆっくりと口元に浮かぶ。
夫は眉を寄せ、訝しげに私を見つめた。
「嘘? あの子って……」
麗香は困惑した表情で、私と夫を交互に見つめる。
「亜紀、おまえ本当に大丈夫か?
今日は早く仕事を切り上げて……」
「あなたは病棟のナースから聞いたんじゃない。
――急変なんて嘘。
最初から……私があの男に呼び出された時から、急変なんてなかった!」
私は振り返り、夫へ憎しみに満ちた声を叩きつけた。
「……何を言ってる?」
顔に動揺を貼りつかせた夫を見据え、私は唇をきつく引き結んだ。
頭上には、身体を押し潰すような重苦しい空気が張り詰めている。
沈黙が長引くほどに、夫の表情はみるみる険しさを帯びていった。
「あの男に呼び出された? 急変が嘘?
……亜紀、何の話をしてるんだ?」
どんな状況でも平静を装うことに慣れた夫が、私を見つめたまま途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「亜紀。
気持ちは分かるけど……こんな場所でする話じゃないわ」
麗香は顔を引き攣らせ、慌てて私の腕を掴んだ。
しかし、全身の血が逆流するような怒りに支配された私には、親友の声さえ届かなかった。
楓が私の友達だと知りながら抱いたんだ。
ずっと二人で私を騙して……
「まさか、ずっと隠し通せるとでも思ったの?」
あんな場所で抱き合うなんて……
「汚らわしい……
汚らわしいのよ!」
ずっと私には触れなかったくせに……
「二人して私を嘲笑って……
許せない」
抑え込んでいた憎しみが、一気に溢れ出す。
私は言葉を失い、青ざめていく夫を、瞬きひとつせず睨み続けた。
「ここじゃ駄目よ。
落ち着いて、亜紀」
麗香は諭すように、私の腕を強く掴んだ。
夫は小さく息をつき、平静な声で言う。
「話は帰ってから聞く。俺はこれからICがあるんだ。
おまえたちも、いつまでも油を売ってないで仕事に戻れ。相川、心カテ頼むな」
そう言って小さく笑みを浮かべると、麗香の肩を軽く叩いた。
そして、白衣を翻し、何事もなかったかのように立ち去ろうとする。
その背中を見た瞬間――
私の中で、憎しみを超えた何かが音を立てて弾け飛んだ。
虚ろな目で夫の背中を見つめたまま、唇がゆっくりと動く。
「許さない……
あなたも……
楓も……」
喉の奥から、地を這うような低い声が零れ落ちた。
「えっ……
楓ちゃん?」
麗香は私の腕を掴んだまま、眉を歪める。
夫は聞こえないふりをしているのか、それとも本当に届いていないのか。
足を止めることなく、食堂の出口へ向かって歩き続ける。
「遼!
逃げるつもりなのっ!」
全身の血が、一気に頭へと駆け上がる。
煮えたぎる感情は、もう抑えられない。
私は目を吊り上げ、麗香の手を振りほどこうと勢いよく腕を振り上げた。
コメント
1件
いや、このエピソードすごかったです……。亜紀の心の亀裂が一気に表出する瞬間、読んでいて息が止まりました。夫の「急変」発言に対する麗香の違和感の拾い方とか、張り詰めた空気の中に細かい伏線がちゃんと効いてて、読み手としてゾクッとしました。「汚らわしい」の連呼に込められた長年の抑圧の重さ、胸に刺さります。続きが気になって仕方ないです。柏木さん、今回も巧みな心理描写でした!