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「亜紀! 駄目っ!」
今にも夫の背中へ飛びかかろうとする私。
それを止めようと、麗香が背後からしがみついた。
「麗香! どうして止めるのっ!」
「どうしてじゃないでしょ!
何考えてんのよ、あんたは!」
腕を掴んでいた力がふっと緩んだ、その瞬間――
パチーンッ!!
乾いた音が食堂に響き渡る。
左頬へ鋭い痛みが走った。
驚きと同時に、張り詰めていた感情が一瞬で断ち切られる。
私は大きく目を見開き、じんじんと熱を帯びる頬へ、ゆっくりと手を添えた。
「……何、その醜態は。亜紀らしくもない。
いい加減、目を覚ましなさいよ」
麗香は眉間へ深い皺を寄せたまま、私を真っ直ぐ見据え、大きくため息をつく。
「………」
私は頬に手を当てたまま、茫然と立ち尽くした。
視線を向けた先に、もう夫の姿はない。
「……ここを出ましょ」
麗香はもう一度深く息を吐くと、私の手首を掴み、そのまま歩き出した。
一つに束ねた長い黒髪を揺らしながら、スタスタと足早に歩く親友の背中。
私は少し遅れた足取りで、その後を追う。
打たれた頬に残る、親友の平手の感触。
……麗香のやつ。
いくら何でも、引っぱたかなくたっていいのに……。
……ああ、そうよね。
ぶたれて当然か……。
自嘲気味に笑みを零し、母親に叱られた子どものように俯いたまま、とぼとぼと歩いた。
「今の時間なら、ここで大丈夫でしょ」
麗香が足を止めたのは、研修医が当直の際に使う仮眠室だった。
シングルベッドと小さなテレビが置かれただけの、殺風景な部屋。
窓から光も差し込まない薄暗い室内へ足を踏み入れると、微かに煙草の匂いが鼻をついた。
「少しは落ち着いた?」
麗香がパチンと部屋の照明をつける。
私は背中を丸めたまま、ベッドに掛けられた白いシーツへ視線を落とし、小さく頷いた。
「そう。なら良かった。
……悪かったわね、それ」
麗香はベッドへ腰を下ろし、私の頬へ視線を向ける。
私は扉の前へ立ったまま、静かに首を横へ振った。
「まさか、相手があの楓ちゃんだったとはね……」
一呼吸置き、麗香は慎重に言葉を切り出した。
「遼……どういうつもりかしら。私の友達に手を出すなんてっ」
床へ視線を落とし、拳をぎゅっと握り締める。
「……そうね。男から誘ったのか、女から誘ったのか……。もしかしたら、楓ちゃんのほうから色仕掛けしたのかもしれないわよ」
「そんなの、どっちだっていい! 楓ちゃんからだとしても、誘いを受け入れたなら同じことよ!」
抑えきれなくなった怒りが、相手構わず噴き出した。
「……ええ、そうね。慰めにもならないわね。ごめん……」
麗香は小さく頷き、眉尻を下げる。
「こんな身近な相手と不倫だなんて……私を馬鹿にしてるとしか思えない!」
「馬鹿なのは、あの二人よ。救いようのない馬鹿だわ。妻がいる職場で不倫なんて。警戒心がなさすぎるし、あまりにも浅はかよ」
呆れ返ったように言い捨て、麗香は深いため息を落とした。
私は冷たい壁へ背中を預け、そのままずるずると滑り落ちるように床へしゃがみ込む。
そして抱えた膝へ額を押し当て、顔を伏せた。
「私、楓ちゃんの様子がおかしいことには気づいてた。以前、真夜中のオペ室で泣いてるのを見たの。
その時、楓ちゃんが何かに苦しんでいるのは分かった。でも、私が触れてはいけないことなんだと思って、麗香には言わなかった。
……これで全部繋がった。
楓ちゃんがオペ室で泣いていた理由は、遼だったのね……」
「真夜中にオペ室で泣いて……そうだったのね。
これで、私があの子に感じていた違和感の正体も分かったわ」
麗香は唇を噛み、何かを言いかけるような眼差しのまま視線を落とす。
「……あの子、私を慕ってるふりをして、本当はずっと私を憎んでいたに違いないわ。
それなのに私は、疎まれていることにも気づかず、旦那の浮気相手だなんて想像もしないで、一人で親しみを感じて……。
私、なんて滑稽な女なの。……惨めすぎる」
「亜紀……」
「この惨めな気持ちを、どうすればいい?
込み上げてくる憎しみを……どう処理したらいいの?」
最後の声は、喉の奥でくぐもった。
項垂れていた顔をゆっくりと上げ、涙の滲む瞳を親友へ向ける。
「亜紀……」
麗香は小さく肩を震わせる私を見つめ、痛ましげに目を細めた。
テレビの上に置かれた目覚まし時計の秒針だけが、重苦しい静寂を刻んでいる。
しばらく床へ視線を落とし考え込んでいた麗香が、ふいに顔を上げた。
「亜紀。正直に答えて」
真っ直ぐに私を見据え、静かに言葉を放つ。
私は涙で滲んだ目元を手の甲で拭い、小さく頷いた。
「亜紀が許せないのは、旦那? それとも楓?」
「それは……」
「待って」
麗香は片手を軽く上げ、私の言葉を制した。
「“両方”って選択肢はなしだからね」
「……う、うん」
私は開きかけた口を閉じ、喉まで込み上げていた言葉を飲み込む。
「よし。じゃあ、どうぞ」
「…………」
麗香は急かすことなく、ただ私の答えを待っていた。
息を整え、掠れた声を絞り出す。
「許せないのは……楓ちゃん。
……楓だわ」
「うん。そう答えると思った。
それが女の本性だから」
麗香はさらりと言い、口元だけで笑った。
女の本性……?
私は眉を寄せ、小さく首を傾げる。
「亜紀の中にある蛍の君への罪悪感が苦しいなら、その行き場を失った感情は、夫じゃなく浮気相手へ向かうものよ。
女の本性に従って、その感情を叩きつければいい」
「遼じゃなくて……楓に?」
「亜紀、今は動いちゃ駄目。
このままじゃ、病院にいられなくなる。
さっきみたいに取り乱したら、亜紀の負けよ」
「……うん。そうね」
「旦那は、亜紀にバレたことで焦ってるはず。
一時的にでも楓を遠ざけるでしょうね。
でも、あの旦那が亜紀を捨ててまで楓を選ぶとは思えない。
恋愛に溺れるタイプじゃないもの。
所詮、楓は遊び相手。だから次に動くのは亜紀じゃない。――楓よ」
「楓から動くのを待てってこと……?
もし楓に会ったら、私はどう振る舞えばいいの?同じ職場にいるのに……」
「今までどおりでいいの。
ああいう“したたかな女”には、怒鳴り散らして罵声を浴びせるのは逆効果。
そうねぇ……
何も知らない顔で、笑ってあげたらいいんじゃない?」
麗香は自分の指先を唇へ運び、悪戯っぽくぺろりと舐めると、妖しく微笑んだ。
コメント
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麗香の平手打ち、あれは本当に「愛ゆえの一撃」だったんだなって思いました。亜紀が感情的になりすぎて自分を失いかけた瞬間を、親友として止めた――その場の緊張感がひしひしと伝わってきました。楓ちゃんがオペ室で泣いていた伏線がここで繋がるのも見事で、「あの時そういう意味だったのか」と納得しました。最後の麗香の“したたかな女”発言と妖しい微笑み、あの戦略的な冷たさには背筋がゾッとしつつも、亜紀を守るための知恵だと分かるから余計に印象に残ります。登場人物の心理設計が緻密で、読み応えのある回でした。