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ある女が鏡の前に立っている
その女は今日日悩んでいることがある
それは、あるはずのモノが突然消えたからである
女にとって失うことが何一段と忌避感があったからである
とはいえ、その失ってしまったものというのは今日日の悩みなどではなく積年の悩みだったモノである
悩みが解決したことを悩むとはよく分からない女である
さて、そんな積年の悩みの渦中というのが
腕から首、額にかけて浮かぶ大きな斑である
あまりの大きさに女は再三、困り果てていた
あらゆる方法を試し、班を消そうと努めたが
結局は徒花であった
妙齢の頃など、班に対する執着は酷いもので自分の皮を割こうとまでした
女の運が良かったことは女自身の柔らかな性格と見た目だろう
周りの人間は率先して同情した
しかし、もう五十路を越え
もうすっかり諦めが着いた頃に
件のモノが無くなっていた
仏が女を哀れんで治してくれたのだろうか
女は喜んだ積年の悩みが消滅したのだから
しかし複雑でもあった
今更消えてももう頬が垂れている五十路
班が消えたとて果実はもう枯れている
嬉しい、嬉しいのだが
どうせなら若い頃に、などと思考を巡らす
思考はやがて静まり、女の日常は滑らかに再開した
鏡の前に立つ回数は減り
他人の視線を量る癖も薄れた
それは解放であったはずだが
同時に、女は奇妙な軽さを覚え始めた
班があった頃
女は常に「班のある女」であった
哀れみも、配慮も、距離も
すべてはその斑を起点に配されていた
斑は呪いであると同時に
女を世界に縫い留める自己同一性であった
だが今
女はただの五十路過ぎの女である
柔らかな性格も、かつての容姿も
年齢の膜に包まれ、誰の記憶にも引っかからない
誰かが女を見ても
そこに語るべき特徴はなく、ただの陳腐な老女である
久しぶりの知人と話しても会話は短く終わり
女は気づく
斑を失ったのではない
相手される理由を失ったのだと
孤独は静かに進行した
誰も女を避けない
しかし誰も女を選ばない
その無関心は、かつての同情よりも
はるかに鋭利であった
ある日
女はふと腕を撫でる
そこに、あの確かな盛り上がりが
あの忌まわしくも馴染んだ感触が
無いことを確かめるように
何度も、何度も
そして女は思う
あれは本当に呪いだったのか、と
斑があったなら
女は自分でいられた
悩み、抗い、語られ
失うことを恐れる存在でいられた
今の女は
何も失うものがない
女は班を求め始める
薬ではない
祈りでもない
ただ、かつての自分を
再び輪郭づける何かを
斑に似たものを
痛みに似たものを
他者の視線が留まる理由を
女は知っている
二度と同じ班は戻らないことを
それでも探す
失われた呪いを
失われた自分を
そして今日も
鏡の前で
何もない皮膚を見つめながら
女は静かに
つまらない孤独へ跛行する