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#ロマンスファンタジー
Jasmine
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桃下結衣
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私は顔をしかめ、天井へ視線を向けたまま動かない夫を凝視する。
「……確かに。俺は最低で、汚らわしい男だな。
すまない」
夫は天井を見つめたままそう言うと、ゆっくりと瞼を閉じ、小さく頭を下げた。
「すまないって……」
予想外の夫の言動に、毒気を抜かれた私は目を見開き、頭を下げる夫をまじまじと見つめた。
「俺がどうかしてた。浅倉楓とは、もう二度と関わらない。
ほんの出来心だったんだ……悪かった」
「関わらないって……
出来心だなんて……」
表情ひとつ変えず、何の痛みも感じさせない無情な口ぶり。
いくら妻の前だからって、そんなふうに平然と言えてしまうものなの……?
「本当は……
あなたも彼女のことが好きなんでしょ?
……少なくとも彼女は、遊びでこんなことをする子じゃないわ……」
雨の中で、ずぶ濡れになっていた彼女の姿――
真夜中のオペ室で、たった一人横たわり涙を流していた姿――
そして、夫に抱かれ、悦楽の波へ溺れていく姿――
私には、彼女の気持ちが分かる。
常に心へ宿る苦しみさえも、痛いほどに分かる――。
「あの子はきっと……
本気であなたを愛してるのよ」
楓は私を裏切った。
胸には底知れない憎しみが渦巻いている。
憎い。
許せない。
だけど……
言葉では表せない、胸を押し潰されるような感情が込み上げる。
衝動的な憎しみと悲しみが交錯し、その複雑な思いに戸惑いながら唇を引き結んだ。
「はぁ?……
だったら何なんだ。何が言いたい」
夫は眉間へ深い皺を刻み、怪訝そうな表情で私を見据えた。
その瞳に宿るのは、身も凍るような冷たい色。
「何が言いたいって……感情の話をしてるのよ」
私は夫の態度に愕然とし、唇を強張らせる。
「感情の話?……愚劣だな。
少なくとも俺は本気じゃない。それは彼女も理解している。お互い割り切った、ただの遊びだ」
返ってきたのは、耳を疑うような冷たい言葉だった。
「愚劣な話って……
『俺は本気じゃない』なんて……
そんな言葉、よく平然と言えるわね。
それは私だけじゃない。彼女に対しても……
あなたは、人の感情を何だと思ってるの!」
「浅倉の感情なんて、亜紀には関係ないだろう?
亜紀には申し訳ないと思ってる。こんな最低な裏切りをして、本当にすまない」
彼は目を細め、これ見よがしに申し訳なさそうな表情を浮かべた。
そこまで開き直って……
私を馬鹿にしているの?
「何なの、それ……
謝れば済むってものじゃないのよ!
切り裂かれた心の痛みは、ずっと消えない!」
語気が荒くなり、急激に血が昇る。
抑えきれない怒りに声が震えだした。
「……あなたは何も分かってない。
私がこれまでどんな気持ちでいたのか……
どれほど寂しかったのか……。
夫に愛されず、ただそこに存在するだけの妻が、どんなに惨めで苦しいのか……
あなたは何も分かってないっ!
何度謝って、何度私を言いくるめて、何度同じことを繰り返せば気が済むのよ!」
「俺は二度と亜紀を裏切らない。
……約束する」
「約束する?……
嘘よ。浮気をするのは、あなたの性質。時が経てば、その性質はまた疼き出す。
これからも何度だって繰り返すわ……
必ず」
そう分かっていたのに……
失った愛に、いつまでもしがみついていたのは私。
ここにはもう何も残っていない。
本当は、とっくに気づいていたのに。
セピア色に褪せた世界が剥がれ落ちていくような、深い虚無感に襲われる。
「……もう無理なのよ、私たち。
私はあなたといても、幸せを感じることはできない」
彼を睨みつけていた視線を床へ落とし、ぎゅっと瞼を閉じた。
「もう無理?……亜紀、何が言いたいんだ」
夫は目を細め、苦々しい表情で私を見据える。
「あなたも感じてるでしょ?
あの時から……
【あの子】を失ったあの時から、私たち夫婦の歯車は狂ってしまった……」
「……違う。そんなことは関係ない」
「……いいえ。
あなたは私を心のどこかで責めてるのよ……
だって私は、もう二度と……」
「違うと言ってるだろ!
……亜紀。お前が何と言おうと、俺は絶対に別れない」
私の言葉を遮った夫は、そう言って口端を大きく歪めた。
ふと険しい目を私から外したかと思うと、夫は何を思ったのか背を向け、ソファーの上に置かれていた携帯を掴み上げた。
「……何をするつもり?」
黙ったまま携帯を操作する夫を見つめ、私は顔をしかめた。
夫は何も答えず、ディスプレイへ視線を落としている。
プルルルル……
プルルルル……
突然、電話の呼び出し音が部屋に流れ出した。
音をスピーカーに切り替えた?……
一体、誰にかけてるの?
重苦しい空気の中に、呼び出し音だけが響く。
プルルルル……
プルルルル……
……プッ。
『はい、もしもし……』
「俺だ……」
『遼一さん……どうしたの?
今夜は自宅にいるはずじゃ……亜紀先生は?』
六回目のコールのあとに聞こえてきたのは、聞き覚えのある甘ったるい声だった。
「……かっ……」
楓ちゃん!?
目を見開き、とっさに口を押さえる。
喉まで込み上げた驚愕の声を、必死に飲み込んだ。
「……亜紀は、今ここにいる」
夫は一瞬だけ私へ視線を向けると、すぐに白い壁へ目を戻した。
『えっ!?
亜紀先生が今そこにいるって……
どういうこと?』
狼狽した声が、冷え切った空間に響き渡る。
「そういうことだ。浅倉とはもう会わない」
受話器の向こうの存在など眼中にないと言わんばかりに、夫は表情一つ変えず冷淡に告げた。
淡々と残酷な言葉を並べる夫を見つめたまま、私は声も出ない。
『そんな……
イヤ……
嫌よ……
遼一さん……
どうして……?』
スピーカー越しに流れる涙声。
その怯えた声が、私の胸へ痛々しく響く。
楓ちゃん……
目を逸らしたい。
耳を塞ぎたい。
そんな衝動に駆られ、足が竦む。
地に足がついていないような覚束ない足取りで後ずさりし、たどり着いた壁へ背中をぴたりと預けた。
夫は耳から携帯を離し、呆れたように大きくため息をついた。
そして、手のひらの携帯を見下ろしたまま、
「何を今さら。
こうなることは、最初から分かっていたはずだろ?」
そう言い落とし、ふっと口元を歪めた。
『……ヒドイ……
遼一さん……
待ってッ……
嫌ァ―――ッ!』
狂乱した彼女の悲鳴が、携帯を突き破るかのように甲高く響く。
やめて……
もうやめて……
悲痛な叫びが刃となって、私の心を正面から貫く。
胸が張り裂けそうで苦しい。
心臓がドクドクと、不快な拍動を打つ。
楓ちゃん……
あなたは遼とは違う。
結ばれない恋だと分かっていても、こんな結末を望んでいたわけじゃないでしょ?
どうして、こんなことになってしまったの?
息苦しさに耐えきれず、私はぎゅっと瞼を閉じ、耳を塞いだ。
愛する人へすがりつく悲痛な叫びを受け入れることなく、夫は迷いなく電話を切った。
再び訪れる沈黙。
「……」
私は背中を壁へ預けたまま、怪訝な眼差しで夫を見つめる。
夫はそんな私を一瞥すると、携帯をテーブルへ置き、テレビの方へ歩いていった。
氷が張ったような静寂の中、夫が手に取ったのは例のDVDだった。
その瞬間――
バキッ。
弾けるような音が部屋に響く。
夫の力で真っ二つに折られたDVDは、無惨な姿で床へ転がり落ちた。
「これで全て片付いた。
まさかコピーまでしてあるほど、用意周到じゃないよな?」
夫は床に落ちた残骸を踏みつけ、不敵な笑みを浮かべた。
コメント
1件
うわ……第113話、読み終わりました。重い……胸がギュッてなった😢💔 亜紀先生の「あなたは何も分かってない」って台詞、すごく刺さった。ずっと我慢してきた想いが溢れてる感じがして。それなのに遼一さんは平然と楓ちゃんに電話して「もう会わない」って……あの冷たさ、怖すぎるよ。 楓ちゃんの「嫌ァ――ッ!」の悲鳴、頭から離れない。三人とも苦しくて、誰も幸せになれないのに、誰が悪いわけでもない感じがもどかしい…。 DVDをバキッて折るシーンも象徴的で、もう戻れないんだなって思った。 続きが気になるけど、ちょっと心の準備が必要かも……。 でも、さくらさんの描く“人間の感情の濁流”に引き込まれました。応援してます🌙