その週の金曜日、俊は都内の事務所で次の仕事に取り組んでいた。
次に俊が手掛ける案件は、港区にあるビルの15階に新しくオープンするレストランのプロデュースだ。
窓からは東京タワーが一望できる。
目の前に遮るものが何もないので、ビル合間にくっきりと浮かび上がるオレンジ色の東京タワーは
何とも言えず幻想的で美しい。
この眺望を生かさない手はない。
俊はその素晴らしい立地を生かし、レストランを美術館のように演出しようと考えていた。
それにはまず窓を『キャンバス』として見立て、美しい夜景を『絵画』としてその中に収める。
その為には既存の枠組みの窓を取り外し、ガラスだけのはめ込み式の窓に変える必要があった。
また夜景という『絵画』を際立たせる為には、室内の照明を少し抑え気味にして色味をオレンジ色にする。
そうする事により、室内の照明と窓に浮かび上がる東京タワーの色味に統一感が芽生え、
夜の漆黒の闇とのコントラストが一層際立ち美しい『絵画』としてあぶり出す事が出来る。
キーポイントとなる照明は、若き才能溢れる照明デザイナーの矢口に全面的に任せていた。
あとは信頼できるインテリアコーディネーターと内装業者に、イメージ通りの発注をかければ店づくりは動き出す。
店のデザインが決まれば、あとはレストランのコンセプトやメニュー、狙う客層やマーケティング方法などを
徐々に詰めていけばいい。
大体のイメージが固まってきたところで、俊はパソコン作業の手を休めた。
実は俊はこの仕事と並行して、着々と引っ越しの準備を始めていた。
鎌倉へ本格的に引っ越しするのは、この仕事が落ち着く来年以降を予定していたが、
急遽予定を変更し、年内のなるべく早いうちに移住する事に決めた。
今までは全て予定通りにきっちり動く俊であったが、今回のように急に予定を変更するのは極めて珍しい。
予定を早めた理由は何かと問われると、特に明確な理由がある訳ではない。
ただなぜか急に年内に引っ越したいと思うようになった。ただそれだけだ。
仕事はリモートを中心にして、必要な場合だけ都内へ出る。
元々はこういう仕事スタイルへ徐々に変えていこうと思っていたので、それが少し早まっただけだ。
ただ周りの人間は、俊の急な移住にかなり驚いているようだった。
特に仕事関係者の間では『隠し妻説』が一段と濃厚になっているようだ。
そんな噂には気にも留める事もなく、俊は淡々と引っ越しに関する手続きを進めていった。
その時、部屋の中に着信音が鳴り響いた。
俊がスマホを確認すると、電話は俊の元妻の沢口麻美からだった。
麻美は俊より4つ年下で、現在都内にセレクトショップを三店舗経営していた。
「もしもし?」
「俊? 聞いたわよ。予定よりも早く鎌倉に引っ越すんですってね」
「ああ、さすが情報が早いな」
「急にどうしたの? まさかもう隠居生活?」
「ハハッ、それは無理だろう。スケジュールは先までいっぱいだ」
「隠し妻がいるって専らの噂だけれど?」
麻美はからかうような口調で言った。
「君までそんな噂を信じているのか?」
「ううん、そうじゃないけれど、一度決めたスケジュールをめったに変えないあなたが急に変えたから、何かあったのかなぁ?
って思ってね。元妻の勘とでもいうのかしら?」
「ハハッ考え過ぎだろう、特に何もないよ」
「なんかアヤシイわね」
麻美はそう言って笑った。
「君こそどうなんだい? 例の年下の恋人とは? 上手くいってるのか?」
「ええ、もうつき合って3年よ。私の中の最長記録! あなたと結婚した時だって交際期間は2年だったのにね。でね、今、再
婚しようかどうしようか悩んでいる最中」
「そっか。相手は確か医者だったよな? 大事にしろよ。前に聞いた話だとかなり男前で誠実なヤツなんだろう? きっと俺な
んかよりも良い夫になるんじゃないか?」
「うんそうね。あら、でもあなただってそんなに悪い夫じゃなかったわよ。最初はあなたみたいな遊び人と結婚したらどうなる
かとハラハラしたけれど、予想に反してあなたは浮気一つしなかったじゃない。それに私の事も大事にしてくれたし、今では感
謝しているのよ。あ、でももしかしたら浮気はバレないようにしていただけだったりして?」
麻美はそう言ってフフッと笑った。
「俺は誤解されやすい男なんだよ。本当は一途なんだ」
俊はそう言って笑った。
「そうかもしれないわね。冗談抜きで付き合ってみたらその良さがわかるのにね。とにかく鎌倉に行っても身体にだけは気をつ
けてね」
「ああ、ありがとう」
俊はそう言うと、元妻との電話を切った。
麻美とは、離婚後も良い関係を築いていた。
元々いがみ合って別れた訳ではない。お互い仕事が忙し過ぎてのすれ違いが原因だった。
麻美と結婚した後、俊は子供を望んだが麻美はそれを拒んだ。
店の経営者である麻美にとって、子供を作るという選択肢は結婚当初から皆無だった。
そして二人で慎重に話し合いを重ねた結果、互いに違う道を歩む結論に達した。
今になってみると、俊は麻美との間に子供を作らなくて良かった、彼女を家庭に縛り付けなくて良かったと
心から思っている。
彼女には持って生まれた商才がある。
その証拠に、経営している三店舗の経営は順調で毎月雑誌に載るほどの人気店だ。
もし麻美を家庭に縛り付けていたら、彼女の才能をみすみす潰すところだった。
今こうして彼女と良き友人関係でいられるのも、互いの仕事を尊重しあっているからだ。
今の二人は同志のような戦友のような……そんな感じなのかもしれない。
そんな事をぼんやりと考えていると、またスマホが鳴った。
今度は記憶にない番号が表示されている。
不信に思いながらも、俊は仕事関係者かもしれないと思いとりあえず出てみる。
「もしもし? 一ノ瀬さん? ゆりあです!」
「?」
「あら、覚えていないの? 先日飲み会でご一緒した浜崎ゆりあです」
「……ああ君か。君はなんで俺の番号を知っているんだい?」
「加藤さんから教えてもらいました」
それを聞いた俊は、
(加藤の奴、余計な事をしやがって)
思わず心の中で毒づく。
「悪いね、今仕事中なんだ」
「じゃあ、お時間がある時に会っていただけます?」
「いや、当分厳しいな。スケジュールがいっぱいなんだ」
「ほんのちょっとでもいいの。またあなたに会いたいの」
「ごめん、申し訳ない」
俊はそう告げて、あっさりと電話を切った。
「ったく、加藤はろくな事をしないな…….」
俊は恨めしそうに呟くと、仕事の続きへ戻った。
コメント
2件
加藤さん…どうせゆりあに泣きつかれて教えちゃったんだろうな💦 それにしても元妻とこんな風にお付き合いできるって、そこには揺るがない信頼関係があるからだよね。ステキ☺️
ゆりあはあからさまに仕事じゃないのに俊さんのプライベートの電話を教える加藤はどうなんだ⁉️迷惑になるかどうかわかるだろうに💢 その逆をいく元妻さんはなんでできた方なんだろう✨別れた理由もお互いを尊重してのようだし、この先の恋愛もこうでありたいね、雪子さん&俊さん👩❤️👨