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屋台を始めて三日で、西門の空き地には自然と人の流れができた。
見回り前の兵が最初に寄り、修繕帰りの石工がそのあとへ続き、遅番を終えた伝令が最後に鍋の底をのぞく。骨付き鳥の塩煮込みは評判を呼び、昨夜からは豆を潰して麦へ混ぜた焼き団子も加わった。食べた者たちの肩から、少しだけ力みが抜ける。怒鳴り声が減り、代わりに「その匙を取ってくれ」「塩はまだあるか」といった、明日の続きがある言葉が増えた。
イルネリオは椀を洗いながら、その変化を嬉しく思った。地下で見た結界炉のことを誰にも話せないままでも、鍋の熱が確かに街の呼吸を戻し始めているのはわかる。
ただ、戻っていないものもあった。
補給台帳の数字である。
昼の倉庫棟では、レオニナがいつも以上に炭筆を走らせていた。壁の目標欄には、麦、塩、豆乳、薬草、薪、見回り夜食と並び、その横へ小さく補填必要の印が増えている。荷を運ぶ人足へ指示を出し、脱走しかけた若い兵を引き戻し、商人へ支払期限を言い含めたあと、彼女は誰も見ていない隙に帳簿の端を強く握りしめた。
紙の端がわずかに折れたのを、イルネリオは見逃さなかった。
けれど、その場で声はかけられない。
前へ出れば彼女はきっと、すぐいつもの隊長の顔へ戻るからだ。
その夜、屋台はいつもよりにぎわった。
西門の兵が二杯目を頼み、カリドウェンが「今日は団子が昨日より丸い」と偉そうに採点し、フロイディスは「それ褒めてる?」と眉をひそめながら手を止めない。ニコリナは空いた木箱へ腰かけた子どもに歌の節を教え、グンナルは売掛札を見ながら渋い顔で銅貨をはじいている。
笑い声も湯気もある。なのに、イルネリオの意識は何度も倉庫棟のほうへ引かれた。
レオニナの姿が、今夜は屋台の前に見えない。
「隊長さんなら、さっき裏へ回ったよ」
鍋へ豆乳を足していたフロイディスが、小さな声で教えてくれた。
「帳面、二冊抱えてた。あれ、あのまま朝まで立つ顔だった」
その言い方に、イルネリオは杓子を置いた。
「少し抜けます」
「行っといで」
フロイディスは鍋の火を見たままうなずく。
「こっちは焦がさない」
倉庫裏は、表の明かりが届かないぶん夜が深かった。
石壁のあいだへ細い風が抜け、積み上げられた空の麻袋がかさりと鳴る。月は雲に半分隠れ、荷車の影だけが長く地面へ伸びていた。
その奥に、レオニナは立っていた。
片腕に帳簿を抱え、もう片方の手で額を押さえている。まるで、そこを押さえていれば全部こぼれずに済むと思っているみたいだった。俯いた横顔は暗がりの中でも白く、息を吸うたび肩先だけがかすかに揺れる。
泣きそうだ、とイルネリオは思った。
声をかけるより先に、胸の奥が痛んだ。
そのとき、表の通路から誰かの足音が近づいた。
レオニナははっとしたように顔を上げる。まぶたのきわに溜まりかけていたものは、瞬き一つで押し戻された。背筋がすっと伸びる。抱えた帳簿を持ち直し、何事もなかったように歩き出そうとする。
いつもの、皆の前に立つ隊長の顔だった。
イルネリオはたまらず物陰から出た。
「レオニナ隊長」
呼び止めると、彼女は少しだけ目を見開いた。だがすぐに口元を引き締める。
「どうしたの。屋台は」
「フロイディスが見ています」
「そう。なら問題ないわね」
それだけ言って通り過ぎようとする。無理に引き止めれば、彼女はさらに固くなる。そうわかったので、イルネリオは別のものを差し出した。
小ぶりの木壺だった。
まだぬくもりの残る豆乳粥が入っている。麦を柔らかく煮て、潰した白豆と豆乳を合わせ、塩を少しだけ利かせたものだ。今夜のまかない用に試していた一品で、冷めても舌触りが落ちにくいよう火を弱く引いてある。
「慰める言葉は、うまく見つかりません」
イルネリオは正直に言った。
「でも、これは冷めても効きが鈍りにくいです。歩きながらでも食べられます」
レオニナはしばらく壺を見ていた。受け取るかどうか迷っているというより、受け取ってしまったら少し力が抜けるのを、先にわかっている顔だった。
やがて彼女は帳簿を抱え直し、空いた手で壺を受け取った。
「……あなた、そういう渡し方をするのね」
「押しつけると、こぼれそうでしたから」
その返事に、レオニナはほんの少しだけ口元をゆるめた。
倉庫裏の低い石段へ、二人で並んで腰を下ろした。
レオニナは湯気の薄くなった粥をひと口すくい、黙って飲み込む。豆のやわらかな甘みのあとから、塩の輪郭が静かに追いつく。強く背中を押す味ではない。冷えた内側へ、少しずつ人のいる場所を作っていく味だ。
「おいしい」
ぽつりと落ちた声は、隊長の顔ではなく、疲れた一人の若い女のものだった。
イルネリオはほっとしたが、何も言わずに待った。
話すかどうかを決めるのは、彼女のほうでいいと思ったからだ。
しばらくして、レオニナが壺を膝へ置く。
「目標を書けば、皆が動くと思っていたの」
石畳を見たまま、彼女は言った。
「どこへ何を運ぶか、誰が何を持つか、何が足りないか。壁へ書いておけば、迷わず済む。そうすれば、崩れかけたところもつなぎ直せると思っていた」
風が帳簿の端を鳴らす。
「でも、書くだけじゃ抱え切れない日もある」
その一言は、とても小さかった。
けれど、昼に人足へ飛ばしていたどの指示よりも重かった。
イルネリオは答えを急がなかった。慰めのためだけのきれいな言葉なら、今この場所で言うべきではない気がした。
「昼、壁の目標を見ました」
代わりにそう言った。
「昨日より項目が増えていました」
「増やさないと、足りないのが見えなくなるから」
「見えているなら、手は増やせます」
レオニナが顔を上げる。
イルネリオは続けた。
「屋台の仕込みも、最初は一人でやるつもりでした。でも、鍋の前に人が増えたら、思っていたより持ちます。誰がどこを見ているか、わかるようになるから」
彼は少し迷ってから言葉を足した。
「あなたも、書く人でいるだけじゃなくていいんだと思います」
レオニナは返事をしなかった。
ただ、その沈黙は拒絶ではなかった。壺の縁へ指をかけたまま、視線を落とし、息をつく。肩から張りつめていた力が、ようやくひとつ抜けたのがわかった。
「弱いところを見せたくないの」
彼女が小さく笑った。自嘲ではなく、困っているときにだけ出る正直な笑いだった。
「見せたら、皆まで不安になると思っていた」
「今夜は、僕しか見ていません」
イルネリオが言うと、レオニナは横目で彼を見る。
「ずるい言い方」
「そうでしょうか」
「そういうところ、静かな顔でやるのがずるい」
けれど、その声は前より近かった。
そこへ、軽い足音が裏路地へ滑り込んできた。
「お邪魔だったら、咳払いしてから帰るけど」
ニコリナだった。歌うときより低い声で、壁にもたれながら二人を見る。ふざけた調子を残してはいるが、目だけは笑っていない。
「どうした」
レオニナが立ち上がると、ニコリナもすぐ表情を切り替えた。
「さっきね、城内で見ない顔の補給役を見たの。西門のあと東門、それから南の物見塔のほうまで、荷札も持たずにうろついてた。顔を覚えようとして近づいたら、するっと人混みに紛れた」
「補給隊の腕章は?」
「形だけはつけてた。でも新品。泥も汗もついてない」
グンナルなら一目で怒るような、場違いなきれいさだった。
レオニナの目が、一瞬で冷える。
「帳簿を見せて」
ニコリナから聞いた特徴を書き留めながら、彼女はもう隊長の顔へ戻っていた。ただ、その横顔はさっきまでとは少し違う。全部を一人で抱える顔ではない。隣に立つ者へ、重さの一部を渡すことを覚え始めた顔だった。
イルネリオは木壺を受け取り、底に残ったぬくもりを指先で確かめる。
地下の石板を削った誰かが、地上でも動いている。
屋台の火が人を集めるなら、暗がりに紛れてそれを消そうとする手もまた、近くまで来ているのだ。
西門のほうで、鍋蓋を叩く音がした。
フロイディスが、おかわりの合図を送っている。人のいる場所の音だった。
イルネリオはその音を聞きながら立ち上がる。
守りたいものの輪郭が、今夜また一つ、はっきりした気がした。