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王都の紋章が押された封書は、朝の光より冷たく見えた。
補給棟の長机の上へ置かれた羊皮紙を、レオニナは立ったまま読み下ろした。まわりには補給隊、門番、人足、工房の使いが半円を作っている。誰も咳ひとつしない。窓の外では、雪解け水が石畳を走る音がしていたのに、その机のまわりだけ季節が止まったようだった。
内容は短かった。
ルメリア砦の維持費削減につき、防衛規模を縮小すること。戦闘継続が困難な場合、兵と住民のうち移動可能な者は南方へ下がること。老齢者、病人、家財については現地判断とすること。
最後の一行だけが、いやに丁寧な字で結ばれていた。
王都の命に従い、混乱なき撤収を。
混乱なき、という言葉が読み上げられた途端、机のまわりの空気はむしろはっきりと揺れた。
「現地判断って、置いていけってことかよ」
「馬車はどうする、誰が出す」
「先に言ったもん勝ちになるぞ」
人足たちの声が低く広がる。補給兵の一人が口を開きかけ、結局何も言えずに俯いた。レオニナは紙を畳まなかった。しわを作れば、そのまま誰かの心まで折れる気がしたのだろう。背筋を伸ばし、ただ事務的な声で告げる。
「今日の荷の流れは変えない。西門の見回り食、診療所向けの薬草、工房への鉄材搬入を優先する。撤退の話は、そのあと整理する」
その言い方はいつも通りだった。いつも通りでいようとする力が入っていた。
しかし街は、命令書が届いた半日で目に見えてざわつき始めた。
昼の市場では、昨日まで干し魚を並べていた店が板戸を半分閉め、布屋は荷を紐でくくり直し、子どもたちは大人の顔色を見て走るのをやめた。南へ続く街道の話ばかりが飛び交う。どの馬車が空いている、誰の親類が途中の村へいる、どの家なら今夜中に畳める。明日をどう守るかではなく、今日どこまで逃げられるかを口にする声が増える。
その中で、グンナルだけはいつも以上に早口だった。
「逃げるなら今だ。明日になれば車輪の修繕代も馬の餌代も上がるぞ。いや、脅してるんじゃない、現実の話だ」
雑貨屋の前に出した折り畳み机へ台帳を広げ、彼は馬車を借りたい者の名を書きつけていた。貸し賃の数字は容赦ない。だが同時に、荷台の耐荷重、道中の水場、車輪一本で何里持つかまで、誰より細かく教えている。恩も借りも曖昧にしない男が、最後の最後まで曖昧にしないやり方で街を逃がそうとしているのだと、イルネリオにはわかった。
西門へ回ると、ガータムが門柱にもたれて立っていた。
いつも通り返事の遅い男で、声をかけてもすぐにはこちらを見ない。だが足元の石畳には炭で細かな線が引かれ、門扉の影の長さと見張り塔の鐘の位置が書き込まれていた。開門、閉門、荷車通過、見回り交代。時刻ごとの余白まで潰すような計算だった。
「……開けるのか」
イルネリオが訊くと、ガータムは門の蝶番を見たまま答えた。
「開ける。開ける時間を、間違えない」
「皆を南へ?」
「行く者は通す。来る者があれば、閉める」
それだけ言うまでに、いつもの三倍は時間がかかった。けれど、その遅さの中に迷いはなかった。何を捨て、何を通し、どの一瞬で門を動かすか。その男はもう決め始めている。
イルネリオは門の外を見た。南へ続く街道は、陽を受けて白く乾いている。荷車ひとつあれば、帳面と鍋と着替え少しを積んで、この街から離れられる距離だった。
離れられる。
その言葉が胸の底へ落ちたとき、額の奥の紋がじくりと熱を持った。
もし自分だけ南へ下ればどうなるのか。
鬼面のことも、地下で見た結界炉のことも、誰にも言わないまま運んでいけるのではないか。ルメリアの石壁も、北の谷も、夜ごと鍋を囲む兵たちの顔も、背を向けてしまえばただの遠景になるのではないか。砦の守り手だ何だと巻き込まれる前に、まだ普通の書庫勤めに戻れる余地があるのではないか。
考えた瞬間、喉がひどく乾いた。
南へ逃げる自分の姿は、うまく想像できなかった。鞄を肩へかけても、足が軽くならない。むしろ、鍋の底に残った焦げみたいな重さだけが胸にこびりついた。
夜になると、屋台の火はいつもより早く灯された。
今日は兵だけではない。避難の話を聞きつけた住民も、湯気の立つ場所へ引かれるように集まってきた。イルネリオは鍋へ豆と塩豚を足し、玉ねぎを炒めた匂いが立つたびに、胸のざわつきを無理やりかき混ぜた。フロイディスは無言で椀を並べ、ニコリナは歌う代わりに客の肩へ毛布をかけて回る。いつもの軽口が、今夜は少ない。
最初に来たのは、足の悪い老女だった。
杖を突き、孫らしい少年に腕を支えられている。椀を渡すと、老女は両手で受け取り、湯気へ顔を寄せた。
「南まで歩けないよ」
誰に言うでもなく、彼女はぽつりとこぼした。
「この膝じゃ、街道の最初の坂も越せない」
少年は何も言わなかった。ただ、ばあちゃんは座って、と木箱を引いてやる。その指が震えているのを、イルネリオは見た。
次に来たのは畑帰りの一家だった。父親の靴にはまだ土がつき、母親の袖口には青い葉の汁が染みている。幼い娘は眠そうに母の腰へしがみついたまま、鍋の匂いにだけ鼻を動かした。
「南へ行けと言われてもな」
父親は椀の中の豆を見ながら苦く笑う。
「明日の水やりを空けたら、畑はそこで終わりだ。戻ってきても何も残らん」
「畑だけじゃないわ」
母親が小さく言った。
「うちは墓もここにあるもの」
その声は弱くない。ただ、簡単に持ち運べないものの重さをよく知っている声だった。
さらに遅い時間、屋台の端へ若い兵が三人並んだ。まだ鎧の革が新しく、肩に馴染みきっていない年頃だ。けれど目だけは昼よりまっすぐだった。
「俺たち、ここの飯に何度も助けられたんです」
ひとりが、ぎこちなく頭を下げた。
「見回りの足がそろうようになったのも、眠気で槍を落とさなくなったのも、ここで食ってからで」
別のひとりが続ける。
「だから、恩を返すっていうと大げさかもしれないけど……逃げる前に、守る側に立ちたいんです」
言い切ったあとで頬を赤くしていた。格好をつけたのが自分でもわかったのだろう。だが三人とも、その場からは動かなかった。
イルネリオは椀をよそいながら、返事ができずにいた。
逃げたい者がいるのは当然だ。逃げられない者がいるのも当然だ。守りたいと言い出す若者がいるのは、たぶん鍋の湯気のせいだけではない。誰も間違っていないのに、街全体がじわじわ裂けていくようで、胸の奥が苦しかった。
そのとき、屋台の脇へ椅子を引きずる音がした。
アクバルだった。どこから持ってきたのか、背もたれの低い木椅子を二脚抱えている。
「立ったままだと喉まで尖る」
そう言って、言い合いになりかけていた農夫と若い兵の間へ椅子を置いた。
「座れ。食ってから喋れ」
命令というより、長年それで何とかしてきた男の癖だった。農夫も兵も反発する気をなくし、渋い顔のまま腰を下ろす。アクバル自身は鍋のそばへしゃがみ込み、差し出された椀を受け取ってから、ようやくイルネリオを見上げた。
「若いの」
低い声だった。怒鳴らなくても、火の音の向こうまで通る。
「腹が満ちた人間は、明日を選べる。空腹の人間は今日を捨てるしかない」
匙で椀の縁をひとつ叩き、彼は続けた。
「南へ行くか、ここへ残るか。その答えを急がせるな。まず食わせろ。食った人間は、自分の足で選ぶ」
その言葉は、屋台にいた者たちへ向けられていた。
けれど同時に、イルネリオの胸の真ん中へまっすぐ落ちてきた。
彼はようやく気づく。自分が怖がっていたのは、鬼面でも北の谷でもなかった。ここで配った温かい食事の記憶が、自分が背を向けた瞬間に消えてしまうことだった。老女の震える手も、畑を離れられない夫婦も、恩を返したいと椀を抱く若い兵も、今この鍋のまわりで同じ湯気を吸っている。その輪の外へ、自分だけ抜けていく姿だけは、どうしても飲み込めない。
いつの間にか、レオニナが屋台の奥へ来ていた。
補給隊の上着を脱ぐ暇もなかったのか、袖口に炭の汚れがついている。彼女は鍋の減り具合、並ぶ椀、座ったまま話し合う農夫と兵、それからイルネリオの顔を順に見た。
「……迷ってる顔ね」
静かな声だった。
イルネリオは、否定しなかった。
「少しだけ、南の道を考えました」
「うん」
責めるでも励ますでもなく、レオニナはうなずく。彼女もまた、一日じゅう撤退の算段と残る者の数を数え続けてきたのだろう。
イルネリオは鍋の柄を握り直した。手のひらへ伝わる熱が、迷いを焼いていく。
「でも」
喉の奥で一度つかえた言葉を、彼は押し出した。
「もう逃げられない、じゃない」
レオニナが目を上げる。
イルネリオは、屋台の火と、椀を持つ人たちの横顔と、北へ向いた城壁の気配を順に感じながら、はっきりと言った。
「逃げない」
その一言で、何かが派手に変わったわけではない。
北の風は冷えたままだし、王都の命令書も消えない。明日になれば、また荷の不足と撤退の相談が積み上がるだろう。
それでもレオニナは、わずかに肩の力を抜いた。
「なら、私は残る者の数え方を変える」
そう言って、彼女は空いた椀を取り上げる。
「逃がす段取りだけじゃなく、残る人間の朝食も計算に入れる」
「手伝います」
「ええ。最初からそのつもり」
短いやり取りなのに、不思議と胸の奥が静かになった。
ニコリナが、張りつめすぎた空気をほどくように小さく口笛を吹く。フロイディスは鍋へ湯を足し、グンナルは台帳を閉じて「逃げる奴にも残る奴にも、勘定だけはつける」とぶつぶつ言った。アクバルは椅子へ座ったまま、よし、と誰にも聞こえないくらい小さく呟く。
屋台の火は消えなかった。
イルネリオは次の椀へ煮込みを注ぎながら、南へ続く街道ではなく、北の城壁のほうを見た。守るとは、誰かを無理に引き留めることではない。ただ、明日の朝もここで湯気が立つように、火を絶やさないことだ。
そのために自分が残るのだと、今夜ようやく腹の底で決められた。