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翌日の昼、イルネリオは書庫の机を拭きながら、布巾を持つ手を二度止めた。
昨夜見つかった階段のことを考えるたび、舌の奥へ湿った石の味が戻ってくる。鍋の塩気とは違う。古い水路の冷え、火を絶やした炉の灰、長く閉ざされていた場所だけが持つ、息を潜めた匂いだった。
窓の外では、補給倉の前でレオニナが人足へ指示を飛ばしている。壁には今日の目標がまた増えていた。麦の受け渡し、夜番の配膳、修繕班への塩支給、そして炭で小さく、地下確認。目に入った瞬間、イルネリオは胸の奥が少しだけ熱くなった。昨夜の屋台を、行き当たりばったりで終わらせる気はないらしい。
日が傾き始めた頃、西門の空き地に四人が集まった。
イルネリオ、レオニナ、シャルヴァ、コンスエラ。屋台は今夜だけ早じまいにし、鍋は空のまま布で包んである。レオニナが眉をひそめた。
「本当に鍋を持っていくの」
「持っていきます」
イルネリオは背負い紐を締め直した。
「昨日、階段の下から火を入れる前の鍋みたいな匂いがしました。何かあるなら、たぶん食べ物か、食べ物を扱う場所です」
「食い物の勘で地下へ潜る男、きらいじゃないよ」
コンスエラが肩を揺らす。
シャルヴァは短く笑っただけで、持ってきた楯を壁へ立てかけ、革手袋の具合を確かめた。分厚い楯ではない。通路へ立てやすいよう幅を抑えた、工房の試作品らしかった。
床板を外し、石の階段を下る。
一段ごとに空気が冷たくなる。地上の夕風とは違い、湿り気が皮膚へ貼りついてくるような冷たさだ。イルネリオの鼻先を、苔、水、錆びた鉄、それから遠いところで乾いた穀粒が砕けたような匂いがかすめた。
階段の先は、昔の貯水路兼避難路だった。
壁面には削れかけた浮き彫りが続いている。丸い鍋、束ねた麦穂、ゆらぐ火。戦の紋章ではない。食卓のための印だとわかる形ばかりだった。
「砦の底に、こんなものが」
レオニナが灯りを掲げる。
「上の連中は、見つけても記録しなかったんだろうね」
コンスエラが足元の水を避けながら言った。
「守るって言葉を、剣と門だけにしたかった人間は多いから」
イルネリオは壁の鍋印へ指先を触れかけ、寸前で止めた。石なのに、鍋肌へ残るぬくもりの記憶がある。ここで火が焚かれ、人が食べ、誰かが次の一口を待っていた。そんな気配が消えきらずに残っている。
やがて通路は二手に分かれた。
左は水音が近く、右は空気がよどんでいる。レオニナは右へ灯りを向けたが、イルネリオは反射的に腕をつかんだ。
「待って」
口の中へ、苦い味が広がっていた。草を焦がしたあとのえぐみとも違う。舌の脇がしびれ、喉が閉じる。見えない霧を、先に飲み込んでしまったみたいだった。
「右はだめです。空気が腐っています」
レオニナが訝しむ前に、コンスエラが小石を投げた。乾いた音のあと、少し遅れて、しゅう、と何かが焼けるような気配が返る。
「毒気だね」
彼女の声から笑いが消える。
シャルヴァは即座に楯を下ろした。
「退路を作る。全員、壁際へ」
彼は通路の角へ楯を斜めに立て、下端へ石を噛ませた。さらに革袋から細い金具を取り出し、楯の縁へ差し込む。すると空気の流れが少し変わり、右のよどみがこちらへ流れ込みにくくなった。
「完全には防げないが、戻る道は確保できる」
「工房の試作品?」
「煙除けを兼ねた作業楯だ。戦場より鍛冶場で先に役立つと思ってた」
シャルヴァはそう言い、イルネリオを見た。
「おまえの舌、便利どころじゃないな」
便利というより、怖い。イルネリオはそう言いかけて飲み込んだ。いまは立ち止まるより先へ進むしかない。
左の通路は緩やかに下り、最後に広い円形の部屋へ出た。
中央には、火を落として久しい結界炉があった。鍋を何倍も大きくしたような石造りの炉で、周囲には溝が幾筋も走り、砦の各所へつながっているように見える。床の奥、崩れた柱のそばに、半ば泥へ埋もれた石板が立っていた。
イルネリオは鍋を下ろし、泥を払う。指先へ伝わったざらつきの向こうから、文字が少しずつ現れた。
レオニナが灯りを寄せ、四人で読み下す。
「守護鬼とは、人を食う鬼にあらず。人の食を守る鬼なり」
声にした瞬間、部屋の空気がかすかに震えた。
イルネリオは息をのんだ。額の奥の熱が、文字へ触れたせいで強まっている。血を好む怪物ではなく、食卓を守るもの。昨夜から胸に沈んでいた恐れの形が、少しだけ変わった。
「続きがある」
コンスエラが下の行を指す。
「炉へ流すは、煮炊きの熱と、人が同じ卓を囲みし記憶。これ満ちるとき、壁はただの石にあらず」
レオニナがゆっくり息を吐いた。
「結界は兵の気合いだけで保っていたんじゃないのね」
「町で生きる営みを増幅してたんだろう」
シャルヴァが石の溝をなぞる。
「鍋の熱がここへ入り、ここから壁や門へ回る仕組みか」
イルネリオは結界炉の縁へ手を置いた。冷たいはずの石の底で、ほんのわずかに、食後の椀みたいなぬくもりが脈打っている。屋台の鍋から立った湯気、兵たちの笑い声、骨付き鳥を頬張ったあとの安堵。そういうものが、この砦を支える力になるのだと、体の奥でわかった。
だが、石板の右下へ目をやったレオニナが、表情を変えた。
「ここ、削られてる」
灯りを近づけると、確かに不自然な傷が走っていた。文字の途中だけが刃物でこそげ落とされ、粉がまだ床へ残っている。長い年月の風化ではない。最近やられた跡だ。
コンスエラがしゃがみ込み、削り粉を指でこすった。
「湿り気が新しい。昨日今日じゃないにせよ、何十年も前じゃない」
「先に誰かが入ったってことか」
シャルヴァが短く言う。
イルネリオの背に冷たいものが走った。屋台の下の階段を知っていた者がいる。しかも、守護鬼と結界の仕組みを読まれたくなくて、わざわざ一部だけ消した。
「城内にいるね」
コンスエラの声が低くなる。
「砦の底を、まだ使う気の誰かが」
戻る道で、イルネリオは何度も後ろを振り返った。
結界炉のある部屋はもう見えない。それでも舌の奥には、あの場所の味が残っている。火を待つ鍋の味。まだ間に合うという味。そして、そのぬくもりへ別の手が伸びている気配。
地上へ出ると、夜風が思ったより温かかった。西門の向こうで、見回りの鐘が一つ鳴る。
レオニナは床板を戻す前に、地下へ続く闇を見下ろして言った。
「今夜から屋台は続ける。あれを満たせるなら、止める理由はない」
その声には迷いより先に決意があった。
イルネリオはうなずく。自分の力が何なのか、ようやく名札が付いた気がした。
ただし、それを知っているのは自分たちだけではない。
屋台の灯が再びともる頃には、砦のどこかで、同じ闇を知る誰かもまた動き始めている。