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「あなたを産んだ人よ」
早川由紀子は、
母の仏壇を見たまま言った。
私は何も言えなかった。
水城千佳は、
私を産んでいない。
二十年前のDNA鑑定でも、
母子関係は否定されている。
そして、
私を水城千佳の娘として届け出た書類には、
由紀子の名前が残っていた。
「誰なんですか」
私は訊いた。
「私を産んだ人」
由紀子は答えない。
「奈緒さん?」
「違う」
「篠宮恵美さん?」
沈黙。
それだけで、
心臓が強く打った。
「恵美さんなの?」
「違う」
今度は、
ゆっくり首を振った。
「じゃあ誰!」
由紀子が私を見る。
「その前に、出生届の話をさせて」
「今さら順番なんてどうでもいい」
「大事なの」
彼女はテーブルの前へ座った。
病院から抜けてきたのだろう。
顔色は悪く、
時々咳をしている。
真壁刑事が言った。
「早川さん。医師の許可なく退院したなら――」
「帰りません」
由紀子は遮った。
「四枚目が私なら、逃げても意味がないでしょう」
死亡通知。
九月九日。
焼死。
彼女の家は、
すでに一度燃やされた。
「それより、澪ちゃんに話さないと」
由紀子は私を見る。
「二十九年前、あなたの出生届を書いたのは私」
「なぜ」
「頼まれたから」
「だから誰に!」
由紀子は少しだけ目を閉じた。
「名前は言えない」
私は椅子から立ち上がった。
「まだ隠すの?」
「名前を言ったら、あなたはその人を母親だと思うでしょう」
「産んだ人なら母親じゃないの?」
「違う」
由紀子の声が強くなった。
「産んだことと、母親であることは同じじゃない」
私は言葉を失った。
母。
千佳。
二十九年間、
私を育てた人。
苦しかった。
憎んだ。
逃げた。
それでも、
母だった。
「じゃあ出生届には何を書いたんですか」
真壁が訊いた。
由紀子は答えた。
「最初は、本当のこと」
「本当の父母を?」
「ええ」
「その原本は?」
「なくなった」
「誰が?」
由紀子の視線が仏壇へ向く。
「千佳」
私は息を止めた。
「母が持っていった?」
「そう」
「いつ」
「あなたが生まれた翌日」
二十九年前。
「私は頼まれて、出生届を書いた」
由紀子は続ける。
「父親の名前。母親の名前。生年月日。全部本当のものを」
「父親も分かってるの?」
「分かってた」
私は父を見る。
雅彦は動かなかった。
「父さん?」
「俺じゃない」
先に言った。
胸の奥に、
冷たいものが落ちた。
「私、父さんの娘でもないの?」
「その出生届が正しいなら」
由紀子が答える。
「違う」
父も。
母も。
私は、
二人の実の子ではない。
「じゃあ私の本当の両親は誰なの」
由紀子は唇を噛んだ。
「言えない」
「何で!」
「まだ証明できないから!」
由紀子が叫んだ。
「私は二十九年前に見たことを話してるだけ。記録は書き換えられて、関係者は死んで、誰が本当のことを言ってたのかも分からない!」
部屋が静かになった。
「だから」
由紀子は少し声を落とした。
「私が書いた最初の出生届だけが、唯一の証拠だった」
「それを母が持っていった」
「ええ」
「何て言って?」
由紀子の顔が歪んだ。
「この子は私が育てる、と」
私は目を閉じた。
母のメモ。
私の娘は死んだ。
だから、あの子を連れて帰った。
あの子を澪として育てる。
「由紀子さんは止めなかったの?」
「止めた」
「警察には?」
「行こうとした」
「でも行かなかった」
「奈緒に止められた」
また奈緒。
「どうして」
「千佳に渡した方が安全だって」
「誰から?」
由紀子の声が小さくなる。
「あなたの本当の父親から」
私は息を止めた。
「父親も了承してた?」
「少なくとも奈緒はそう言った」
「本人には会った?」
「会ってない」
「じゃあ確認してないじゃない!」
「そうよ」
由紀子の目から涙が落ちた。
「だから私は二十年間、後悔してる」
「何を」
「千佳にあなたを渡したこと」
私は何も言えなかった。
由紀子は続ける。
「三日後、千佳がもう一度来た」
「何をしに」
「新しい出生届を持って」
「そこには?」
「父、水城雅彦」
私は父を見る。
父の顔色が変わる。
「母、水城千佳」
そして、
「子、水城澪」
私の名前。
「由紀子さんがそれを書いた?」
「違う」
「じゃあ誰」
「千佳」
「でも届出人はあなたの名前になってる」
「私の印鑑を使った」
真壁が反応する。
「無断で?」
「ええ」
「なぜ警察に届けなかったんです」
由紀子は笑った。
「届けたわ」
私は驚いた。
「警察に?」
「でも証拠がなかった」
「原本は?」
「千佳が持っていた」
「印鑑は?」
「返されていた」
「あなたの署名は?」
「真似された」
母は、
出生届を偽造した。
私は戸籍課で働いている。
その意味が分かるからこそ、
怖かった。
「じゃあ」
私は言った。
「私の今の戸籍は、母が作った?」
「そうよ」
「父さんは知ってた?」
「知らなかった」
雅彦が答えた。
「俺は出生届を千佳が出したと思ってた」
「自分の娘だと?」
「ああ」
「二十年前まで?」
父が頷く。
「だからDNA鑑定をした」
「それで母の子じゃないと分かった」
「ああ」
「自分との鑑定はしなかった」
「千佳に止められた」
私は笑った。
また、
すべて母が止めている。
「母は何がしたかったんだろう」
誰にともなく呟いた。
由紀子が答えた。
「家族を作りたかったのよ」
「人の子どもで?」
「自分の子を失った直後だった」
「だからって盗んでいいわけじゃない」
「もちろん」
由紀子は即答した。
その言葉に、
初めて迷いがなかった。
「だから私は千佳を許さなかった」
私は写真を見る。
母が赤ん坊を抱いている。
その裏。
この子を澪にする。
「母は私を誘拐したの?」
とうとう、
その言葉を口にした。
誰も答えなかった。
「私を産んだ人から奪って、偽の出生届を出して、自分の娘として育てたなら」
喉が震える。
「それって誘拐でしょう」
由紀子が目を閉じた。
「そう見える」
「見えるじゃなくて」
「でも一つだけ、分からないの」
「何が」
「あなたを産んだ女性が」
由紀子は言った。
「本当にあなたを千佳から取り戻したかったのか」
私は眉を寄せた。
「返してって書いてあった」
DNA鑑定書。
澪ちゃんは、あなたの子ではない。
だから返して。
「それを書いたの、由紀子さんでしょう」
「ええ」
「なら、あなたは返すべきだと思ってた」
「私はね」
「産んだ人は?」
由紀子は首を振った。
「二十九年間、一度も『返して』とは言わなかった」
「どうして」
「むしろ逆」
「逆?」
由紀子がバッグから小さな封筒を出した。
「二十九年前、出生届を書いた日にもらった」
封筒の表。
由紀子へ。
「誰から?」
「あなたを産んだ人」
真壁が中身を確認し、
私へ見せた。
短い手紙。
この子を水城千佳に渡してください。
私は息を止めた。
続き。
私の娘として残してはいけません。
名前も、出生記録も消してください。
そして最後。
千佳だけが、この子を生かせます。
私は何度も読み返した。
奪われたのではない?
渡された?
「これが本物なら」
私は言った。
「母は誘拐してない」
「そうなる」
由紀子は答える。
「でも」
「まだ何かあるの?」
「この手紙をもらった時間」
由紀子が言った。
「あなたは、まだ生まれてない」
私は固まった。
「……何?」
「手紙を受け取ったのは、五月十七日の午後八時」
私が生まれたとされるのは、
その数時間後。
「出産前に」
由紀子は私を見る。
「あなたを千佳に渡すことが、もう決まっていた」
真壁が訊いた。
「では、計画的だった?」
「ええ」
「誰が計画したんです」
由紀子は答えなかった。
私は手紙の筆跡を見る。
知らない字。
でも、
奇妙な癖がある。
一文字だけ、
見覚えがあった。
澪。
母の古い手帳で、
何度も見た字。
「これ……」
私は別の紙を取り出した。
十五年前、
母宛てに届いた最初の死亡通知。
裏面。
七人の中から一人選べ。
筆跡を並べる。
似ている。
完全ではない。
でも、
「同じ人?」
真壁が二枚を見比べる。
「鑑定が必要ですが、可能性はあります」
私は由紀子を見る。
「私を母に渡した人が」
声が震えた。
「十五年後、死亡通知も送った?」
由紀子は否定しなかった。
そのとき、
父が手紙を見て、
突然立ち上がった。
「待て」
「何?」
父の目は、
手紙の最後にある小さな印を見ていた。
三本の線を重ねた、
奇妙な印。
「この印……」
「知ってるの?」
父の顔が青ざめる。
「十二年前にも見た」
「どこで」
「ひかりが持っていた紙だ」
私は息を止めた。
「何の紙?」
「千佳から逃げてきた夜」
父は答えた。
「ひかりは一枚の出生届を持ってた」
「誰の?」
父が私を見る。
「お前のだ」
「私の出生届?」
「違う」
一度、
息を呑む。
「千佳が偽造した方じゃない」
父の声が震えた。
「由紀子さんが最初に書いた、本物の出生届だ」
コメント
1件
うわぁ…第35話、読み終わったけど心臓がバクバクしてるよ😭💦 出生届が偽造されてたってだけでも衝撃なのに、産みの母親が「生まれる前に」千佳さんに渡すよう手紙を書いてたって…それって誘拐じゃなくて「計画」だったってことだよね? 「産んだことと母親であることは同じじゃない」って由紀子さんの言葉、めちゃくちゃ重い。千佳さんは確かに育ての母だったけど、じゃあ本当の母親の想いはどこにあったんだろう。 そして父・雅彦が「本物の出生届」を見てたっていうラスト、震えたよ…!次回が待ちきれない、本当にありがとうございます✨
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杯雪乃
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