テラーノベル
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ディアビレは差し出された手を、数秒も見つめてしまった。断る理由はいくらでも思いつくのに、そのどれも今は薄かった。ゆっくり指を重ねると、ジナウタスの手は驚くほど落ち着いていた。
曲が変わる。やわらかな三拍子が流れ、二人は会場の中央へ進んだ。
ステップを失敗したらどうしようと思ったのは最初だけだった。ジナウタスの手が腰に添えられた瞬間、足の運びまで自然に整う。引かれるのではなく、隣で合わせてもらっている感覚がした。
「緊張してる」
「してます」
「見れば分かる」
「だったら聞かないでください」
小さく返すと、彼の口元が少しだけゆるんだ。
周囲には大勢の目があるのに、二人のあいだだけ妙に静かだった。ディアビレは初めて、自分が見世物ではなく、大事に扱われていると知る。照明の中に立つことが、恥ではない夜もあるのだと。
ジナウタスは目をそらさない。
「惜しいな」
「何がですか、今度は」
「まだ半分しか信じてない顔」
胸が跳ねる。言い返そうとしたところで、彼の親指がそっと手の甲をなぞった。優しいのに逃げ道のない仕草だった。
曲は終盤へ向かい、硝子細工の光が二人の肩に散る。ディアビレはこのまま、あと少しだけでも続けばいいと思った。惨めだった日々を全部忘れるのではなく、上から静かに包み直してくれるような時間だった。
けれどその瞬間、鋭い電子音が空気を裂いた。
非常ベルだった。
一拍遅れて、会場のあちこちで悲鳴が上がる。ダンスの輪が崩れ、給仕が走り、ラウールの声が裏返る。
ジナウタスがすぐにディアビレの手を握り直した。
「離れるな」
けれど何が起きたのか確かめるより先に、会場の奥から誰かの叫びが聞こえた。
「保管庫が荒らされてる!」
#海辺の町