その日の夕方、青野朔也(あおのさくや・40歳)は、工房近くのカフェに入った。
身長178cmの引き締まった身体に、長めの前髪のマッシュショートヘア、それに薄く生えた無精髭。
憂いを帯びた雰囲気と整った顔立ちは、女性を惹きつける魅力がある。
東京にいた頃はかなりモテていたが、今はそうでもない。高齢者ばかりのこの町では、見た目の良さなどあまり意味はなかった。
ここは北海道・斜里町。カフェは、海から道路一本挟んだ場所にあり、朔也の工房もこの並びにある。
カフェからも工房からも、雄大なオホーツクの海が見渡せた。
この店は、朔也の大学時代の後輩・曽根蓮(そねれん・39歳)と、妻の綾(あや・35歳)が経営している。
二人はこの町に、五年前に移住した。
綾も芸大の後輩で、夫婦はこのカフェを営みながら、それぞれ創作活動を続けている。
ドアのベルが鳴り響き、朔也が姿を現した。
「朔也さん、いらっしゃい。今日はもう終わりですか?」
「うん、今日は早じまいしたよ」
「珍しいですね。コーヒー、いつものでいいですか?」
朔也は頷くと、カウンター席の一番端に腰を下ろした。
「あれ? 綾ちゃんは?」
「今日は公民館の絵画教室だったんで、保育園に星奈(せな)を迎えに行ってます」
「子育ての合間に講師業、頑張ってるなー」
「教えるの好きみたいですよ。それに、子育てはストレスがたまるから、ちょうどいい気分転換になるって」
「それはいいことだね。で、昴(すばる)は?」
「今、二階で宿題やってます」
蓮はそう言って微笑んだ。
曽根夫婦には、小学校三年生の昴という男児と、保育園に通う女児・星奈(せな)がいる。
「そういえば、アシスタント見つかりましたか?」
「うん、なんとか」
「え? 決まったんですか? よくこんな僻地へ来てくれる人がいましたね」
「うん、決まってホッとしたよ」
「どんな人なんですか?」
「美大で陶芸を専攻していた人で、今は美術予備校で講師をしているらしい。歳は27だったかな?」
「へぇ……男性ですか?」
「うん、それなんだけど、『美しい』に『宇宙の宇』って書いて、なんて読むと思う? ふりがなが抜けててさ……」
「『みう』……ですか?」
「やっぱそうだよな」
「じゃあ、女性?」
「うーん……でも、都会暮らしの女の子が、いきなりこんな僻地に来るかなあ……」
「たしかに……。ちなみに、どちらから来るんですか?」
「東京」
「東京から?」
蓮はかなり驚いているようだ。
この町には、観光で訪れる都会人は多いが、わざわざ移住する人間はいない。
「まあでも、朔也さんは顔面偏差値が高いから、ファンの女性が来るっていうパターンかもしれませんよ?」
「ははっ、それはないだろう。それに、そんな軽い気持ちで来られても、逆に不安になるよ」
「そうですよね。でも『美宇』っていう名前は、女性だと思うけどな~」
「だよなあ……」
「あ! でも、経歴書みたいなのはネット上で見せてもらったんですよね? だったら、性別欄に書いてあるんじゃ?」
「それが、性別欄がないやつでさ……」
「なるほど……なんかややこしい世の中になりましたね。写真は?」
「写真もないシンプルなものだったんだ」
そこでコーヒーが入ったので、蓮は朔也の前にカップを置いた。
「うーん、いい香りだ……」
朔也は満足そうに呟くと、静かに一口飲んだ。
このカップは朔也が作ったもので、この店の器はほとんどが彼の作品だった。
「うん、美味い」
「ありがとうございます」
「いや、ほんと美味いよ……イラストレーターにしておくには惜しいくらいだ」
「あはっ、だからカフェを始めたんですよ。今では、どっちが本業かわからないって綾に茶化されてますから」
「でも、絵の仕事の方も順調なんだろう?」
「おかげさまで。ところで、新しいアシスタントはいつから来るんですか?」
「なるべく早く来てほしいと伝えたよ」
「そうですよね。年明けに札幌での作品展も控えてますからね」
「そう。あと、ネットショップの方も一人じゃ追いつかなくなってきたし、陶芸教室の予約もいっぱいだし……」
「陶芸教室は仕方ないにしても、ネット販売の方は人を雇ったらどうですか?」
「そんな暇な人間、この町にいる? ただでさえインバウンドで人手が足りないのに」
「たしかに。綾が暇なら手伝いに行かせるんですけどねー」
「綾ちゃんだって忙しいんだから、 無理しなくていいよ。それより、裏の瀬川(せがわ)さんちのアパートって、一部屋空いてたよね?」
「はい。この前、空きが出たと言ってましたから」
「じゃあ、ちょうどいいな」
「新しいスタッフの部屋ですか? あそこはまだ新しいから、きっと気に入りますよ」
未亡人の瀬川はこの辺りの地主で、蓮が買ったこの土地も、彼女から譲り受けたものだった。
瀬川は現在70歳で、カフェの裏に自宅を構えていた。
「じゃあ、頼んでから帰るかな。この町は賃貸物件が少ないから、早いうちに押さえないと……」
「すぐに言った方がいいですよ」
コーヒーを飲み終えた朔也は、店を出た。
瀬川家に寄ってアパートのことを頼んでから、道路を渡って浜辺へ降りる。
この辺りの海岸は岩場がほとんどで、唯一ここだけが砂浜になっていた。
波打ち際まで歩くと、朔也は海を眺めながら大きく伸びをした。
そして、ゆっくりと視線を空へ向ける。
(今年の流星群は晴れるかな……)
そう思いながら、子供の頃、この海辺で見た降るような星空のことを思い出していた。
(『美しい宇宙』と書いて、『美宇』……どこかで聞いたような名前だけど……気のせいか?)
朔也は穏やかに微笑みながら、夜の帳が降りてゆく空を静かに見上げた。
コメント
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子どもの頃出会っているとか? 会うのがドキドキですね〜💓
ヒーロー朔也さん、遂に登場! あれれっ…!? 美宇ちゃんと朔也さん、 ひょっとしてどこかで出会っていた…⁉️
朔也様 美宇ちゃんは朔也様の作風とオホーツクブルーに魅入られて斜里町に来るのです なので仕事はしっかりこなせると思いますよ でも星見ながらとか冬は流氷を見ながらとか二人が親しくなるチャンスはたくさんありそう🩷マリコ様の海や空の表現がとても美しいのでどの様な情景の中で二人が結び付いていくのかとても楽しみです