テラーノベル
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放課後の空き教室。
相談者は、遥の向かいの席で机の端を指先でなぞっていた。
「俺、自分のことで怒れないんです」
遥は顔を上げた。
「怒れない?」
「誰かに嫌なこと言われても、その場では何も思わないんです。あとになって考えると、普通に嫌だったんだなって分かる。でも、その時に怒ればよかったとは思わなくて」
「どうして?」
「怒ったら、相手のほうが困るじゃん」
遥の目が、一瞬だけ相談者から逸れた。
机の端に、細い傷がいくつも入っている。
今日の昼休みについたものだった。
教室に戻った時、机の上に置いていた筆箱が床に落ちていた。
拾おうとしたら、誰かに先に踏まれた。
笑い声がした。
遥は何も言わなかった。
そのあと、机の表面をカッターで何度も引っかかれた。
それも、何も言わなかった。
「困らせたくない?」
「それもある。俺が怒ったことで、相手が嫌な気分になったら嫌なんです」
「自分は嫌な気分になってるのに?」
「……そこは、別にいいんです」
遥の指が、膝の上で固くなる。
別にいい。
その言葉を、遥は知っている。
嫌でも。
痛くても。
腹が立っても。
自分が黙れば終わるなら、そのほうがいい。
少なくとも、自分が怒ったことでさらに面倒なことになるよりは。
「あとからずっと考えるんです。あの言い方、嫌だったなとか。なんで何も言わなかったんだろうとか。でも、次に会った時には普通に話します」
「嫌いになる?」
「そこまではならない」
「じゃあ、怒るほどじゃない?」
「……分からない」
相談者は俯いた。
「自分のために怒るって、なんか大げさな感じがするんです」
「大げさ?」
「もっと酷いことをされてる人もいるし。これくらいで怒るのって、面倒くさいかなって」
遥は相談者を見た。
「じゃあ、誰かが同じことをされたら?」
「それなら怒れます」
「その人には、そんなことされていいわけないって言える?」
「言える」
「自分には?」
相談者が黙る。
遥も黙った。
自分にも同じことを言えるのか。
そんなことされていいわけない。
やめてくれ。
ふざけるな。
嫌だった。
どれも、遥には言えない。
言えば、次はもっと酷くなるかもしれない。
そう考える癖が、もう身体に染みついている。
「……自分だけは、我慢すればいいって思ってるのかもしれない」
相談者の言葉に、遥は目を伏せた。
「俺も、それは分かる」
「遥も?」
「うん」
それだけ言って、遥は机の傷に視線を落とした。
#暗い過去
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相談者は気づいていない。
その傷が、昔のものではないことも。
今日ついたものだということも。
「でも」
遥はゆっくり顔を上げた。
「自分のことだけ、別の基準にしなくてもいいと思う」
「怒れなくても?」
「怒れなくてもいい」
「じゃあ、どうしたらいい?」
「嫌だったって思うだけでもいい。やめてほしいって言ってもいい。距離を置いてもいい」
相談者が遥を見る。
「……そんな簡単にできるかな」
「できなくてもいい」
遥はそう答えた。
「できない時は、誰かに言っていい」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ詰まった。
誰かに言っていい。
そう言っている自分が、今ここにいる。
今日も何も言わずに、自分の机についた傷をそのままにして。
「一人で全部我慢する必要はないから」
言葉だけなら、いくらでも出てくる。
けれど、自分がそれを信じているわけではない。
相談者はしばらく黙ってから、言った。
「……嫌だったって思ってもいいんだ」
「うん」
「相手が悪いって決めなくても?」
「決めなくていい」
「俺が傷ついたってことだけ、認めてもいい?」
遥は少しだけ間を置いてから頷いた。
「それは誰かを悪者にすることじゃないから」
相談者は小さく息を吐いた。
「じゃあ、次に嫌なことがあったら……怒れるかは分からないけど」
「うん」
「せめて、嫌だったって思うことにします」
「それでいいと思う」
相談者が教室を出ていく。
扉が閉まる。
遥は一人になった。
机の傷を見る。
指先で触れる。
ざらついた感触が残った。
「……嫌だった」
誰もいない教室で、遥は小さく呟いた。
言えたのは、それだけだった。
明日になれば、また同じ机を使う。
また何かされても、たぶん何も言わない。
それでも相談者には、自分を守っていいと言った。
その言葉だけは、間違っていないと思う。
自分ができないことでも。
自分には許せないことでも。
誰かには、許していいと言える。
遥にとっては、それが今できる唯一の助言だった。
コメント
1件
第32話、読み終えました。「自分のために怒るのが苦手」というタイトルがもう、ずしりと響きましたね。 相談者と遥、両方とも“自分のことは我慢すればいい”と思っている。でも遥は相談者には「嫌だったって思うだけでいい」「一人で全部我慢しなくていい」と伝えられる。そのギャップがとても切なかったです。 最後、誰もいない教室で小さく「嫌だった」と呟く遥に、胸がぎゅっとなりました。自分にできないことを、それでも誰かのために言える優しさ。ruruhaさんの描くこの繊細な距離感、大好きです。続きもじっくり読ませていただきますね🌷