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#海辺の町
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翌日、離れの空気は明らかに鈍かった。いつもなら誰かが先に軽口を投げるのに、今日は紙をめくる音ばかりが目立つ。
美恵が資料をそろえ、遙香が役場提出用の欄を埋め、海花が札絵の下描きを見直している。作業は進んでいるのに、輪が回っていない。
「これ、啓介くんの文待ち」
美恵が言う。
「……あとで書く」
「それ、今日三回目」
啓介は返せない。
芽生も、聞き書きの整理をしているのに、一度も顔を上げない。
蓮都が耐えきれずに口を開く。
「何かあったなら言えよ。見てるこっちが落ち着かん」
「別に」
啓介と芽生が、ほぼ同時に言った。
義海が顔をしかめる。
「うわ、同時に別にって言うの、仲いいのか悪いのか分かんねえ」
いつもなら笑いになる言葉が、今日は半分しか跳ねない。
昇万が古本の束を置きながら言う。
「かるたってな、札だけ揃ってもだめなんだよ。読む声と取る手がいて、やっと遊びになる」
「何が言いたいんですか」
芽生が聞く。
「今、誰も声を出してないってこと」
その一言で、部屋がまた静まる。
啓介は机の中央に置かれた未完成の札を見る。
み。
命に終わるまで——その続きが決まらないまま、紙だけが置かれている。
芽生がそれを見つめる横顔は、昨日よりさらに遠かった。
その時、義海がぽつりと言った。
「笑ってない離れ、嫌だ」
誰もすぐには返事をしなかった。
けれど、その言葉だけが、沈みかけた空気の底へ小さく届いた。
かるたづくりは止まっていた。
手は動いているのに、心がまだ戻っていない。
離れの中に満ちていたはずの春のざわめきが、初めて足を止めた。