テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#海辺の町
翌朝の離れは、前日までとは違う緊張で満ちていた。
札は並び、椅子も整い、足場の確認も済んでいる。あとは始まるのを待つだけなのに、肝心の啓介と芽生が、露骨なくらい目を合わせない。
その様子を最初に見つけたのは絋規だった。
「え、何。二人とも昨日の夜、港で何か落とした?」
「落としてません」
芽生が即答する。
「じゃあ拾った?」
莉々夏がにこにこしながら乗ってくる。
「その顔は拾った顔だよね」
「拾ってません」
今度は啓介が言ったが、声が妙に固い。
義海は数秒見比べたあと、腹を抱えて笑い出した。
「だめだ、これ絶対なんかあったやつだ」
「お前は声がでかい」
蓮都が後頭部を軽くはたく。
享佑はプリンの箱を机へ置きながら冷たく言った。
「朝から甘ったるい空気出すなら、せめて手を動かして」
「はい」
二人の返事がぴたりと揃い、今度はそのことに皆が笑う。
澄江だけは少し離れた場所で、そのやり取りを静かに見ていた。
笑い声の向こうに、若いころ自分が置いてきた時間を見ているような目だった。
「いいですね」
澄江が小さく言う。
「こういう、どうでもよさそうなことで笑える朝」
その言葉で、場の空気が少しだけ柔らかく変わった。
今日は証言の日で、審査の日で、離れの先が決まる日でもある。けれどそれだけではない。ここに集まった人たちの、日常のようなものがちゃんと育ってきた日でもあるのだと、皆がどこかで思い出した。
啓介は深呼吸した。
芽生と目が合う。
今度は、どちらも逸らさなかった。
笑うしかないほど恥ずかしくて、笑っていられるほどまだ終わっていない。
そのぎこちなさを抱えたまま、本番の時間が近づいていた。