夜が、音を失っていた。
遥は机に肘をついたまま、何も考えられずにいた。
明かりは点けていない。部屋の隅に、街灯の光が淡く入り込み、壁を薄く染めている。
それはまるで、逃げ場を照らすためではなく、「お前はまだここにいる」と告げるための光のようだった。
今日、蓮司が合図をした。
ただそれだけで、空気が変わった。
教室の視線も、声の抑揚も、すべてが何も変わらない。
地獄には始まりも終わりもない。
遥は息を吸い、吐く。
喉の奥に、鉄の味がした。
それが血なのか、記憶なのか、もう分からない。
――何も変わらなかった。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
あの日々のすべてを終わらせたくて、どれだけ静かにしてきただろう。
言葉を飲み込んで、目を合わせず、ただ気配を消して生きてきた。
痛みを出さないようにすれば、きっと壊されずに済む。
そう信じてきたのに。
なのに。
部屋の壁を見つめる。
そこに、何もない。
なのに、目を逸らすことができなかった。
“ここは安全じゃない”――そう、身体が知っている。
灯りを点けても、布団に潜っても、音を消しても、どこにも安らぎはない。
家という場所が、ずっと昔から“休むための場所”じゃなかったことを、体が覚えている。
静けさが、痛い。
眠れない夜の空気は、何よりも残酷だ。
誰もいないのに、誰かがそばにいるような気配。
息をするたびに、その見えない何かが喉を締める。
――また間違えたのか。
その言葉が、無意識に浮かびそうになった。
けれどすぐに、遥は頭を振る。
もう違う。間違えたのは最初からだ。
優しさを信じたこと。
人に触れようとしたこと。
それが全部、罰の始まりだった。
目を閉じる。
静寂の中で、心臓の音だけが自分の存在を証明している。
でも、それすらいつか止まってしまえば、きっと誰も気づかない。
“見届ける”なんて言葉があるけれど、誰も俺を見届けたりしない。
蓮司も、沙耶香も、誰も。
彼らにとって俺は、“何かを確かめるための材料”でしかない。
それでも、生きてしまう。
死なないという選択を、何度も無意識で繰り返してしまう。
理由なんてない。ただ、死ぬほどの勇気がないだけだ。
窓の外に、遠くで車の音が響く。
遥はその音にすがるように耳を傾ける。
生きている世界の音が、かすかに自分に触れる。
けれど、心はもう戻らなかった。
あの教室と同じ空気が、この部屋にも流れている。
どこにも出口がない。
世界の形がまた、地獄の輪郭に戻っていく。
――明日が来る。
そのことが、何より怖かった。
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