🌖霜耐(そうたい)
「……寒いのに、なんで誰の吐く息も見えないんだ?」
それは、“凍るほどの寒さ”の中にしては、あまりにも静かすぎる疑問だった。
息が出ない街。時間が凍っているような町並み。
駅名は 霜耐(そうたい)。
降りた先は、すべてが氷の膜に包まれたような住宅街。
電柱も、自転車も、歩道の落ち葉さえ、透明な霜の層に覆われている。
だが、異常なのはその氷が割れないこと。
どれだけ踏んでも滑っても、どこも“少しも壊れない”。
家々の窓にはカーテンが閉じられたまま。
誰も外に出てこず、扉には雪のような文字が浮かぶ:
「その記憶、融けてはならぬ。」
この駅に降り立ったのは、
本庄 あすみ(ほんじょう・あすみ)、30歳の助産師。
白とグレーを重ねたダウンジャケット、首元の白いスヌード、
足元は擦り切れたスノーブーツ。
化粧気のない顔に、凍えるような目の色だけが深い印象を残していた。
あすみは凍った住宅街を歩く。
手には一枚のハガキ。差出人は書かれておらず、宛名だけが記されていた。
「本庄 あすみ様へ。——あなたの“選ばなかった言葉”が、ここにあります。」
気づけば、街のあちこちに凍った“過去”のオブジェが残されていた。
・凍りついた病室
・止まったチャイム音
・返事を聞かずに閉じたドア
そして、住宅街の中心にある広場には、
ひときわ大きな氷のオルゴールがあった。
中に見えるのは、小さな赤ん坊を抱く自分自身の姿。
それは、かつて失われた命と向き合った夜。
その姿が、オルゴールの氷越しに語りかけてくる。
「あなたはあの時、“忘れること”を選ばなかった。 だからここに来た。 けれど、“凍らせ続ける”ことが、守ることとは限らない。」
あすみは、オルゴールのぜんまいを回そうとするが、凍って動かない。
代わりに、自分のハガキを中に差し込んだ。
その瞬間、氷に小さなヒビが入る。
中の音楽が、歪んだ音程で流れはじめた。
それは、かつて分娩室で聞いた子守唄の旋律。
思わず、あすみの目から涙がこぼれた。
その涙だけが、この街で初めて氷を溶かした。
南新宿駅に戻ると、彼女のスヌードには、
雪のように見えた文字が刺繍されていた。
「融けた記憶は、もう“凍らせなくてもいい”。」
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