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夏至の夜明け前、北の谷はまだ闇に沈んでいた。
けれど、鬼の気配だけは、夜風より先にイルネリオの舌へ届いた。
西門脇の屋台で木杓子を握ったまま、イルネリオは顔を上げる。風そのものは涼しいのに、舌の奥へ流れ込んできたのは、焦げた骨の苦みと、濡れた土へ古い血をこすりつけたような重たい渋みだった。谷底から押し上げてくる鬼の群れを、目より早く味覚が拾っていた。
「来る」
つぶやいた声は、自分でも驚くほど低かった。
レオニナがすぐに振り向く。麻のエプロンの裾を帯へ挟み、木札を抱えたまま彼女は短く問うた。
「どのくらい」
「多いです。先頭はまだ谷の半ば。でも、走るのが混じってる」
「わかった」
返事は一息だった。彼女はすぐに木札の順を入れ替え、火前の兵へ声を飛ばす。
「西門、第一配膳を前倒し。槍隊へ麦団子を先に出して。見張り台には香草スープ、門番には塩焼き。持ち場を離れない順で回して」
言葉が途切れない。迷う暇を与えない声だった。
鐘が鳴る。
一本、二本、三本。北からの大規模接敵を知らせる音が、まだ暗い町へ走っていく。眠りの浅い住民たちが窓を開け、兵たちが帯を締め直し、広場からは槍の柄が石を打つ音が返った。
西門前にはすでに長椅子が並べられている。屋台は今夜だけの店ではない。配膳台であり、伝令所であり、結界へ人の営みを送り込む喉元でもあった。
フロイディスが大鍋の蓋を跳ね上げる。
「麦団子、持久力寄りでまとめた。食べたあと喉が渇きにくい」
「助かる」
イルネリオは鍋へ手をかざした。湯気の流れが見える。どの鍋に、どの効きが乗っているかも、もう考えなくてもわかった。麦の粘りには踏ん張る力を。香草には視界を澄ませる集中を。塩焼きには、恐怖にのみ込まれた脚を前へ戻す熱を。
彼が一椀ずつへその感覚を流し込むたび、額の紋がじりじりと熱を持つ。痛みより先に、砦の結界の薄い場所が頭へ触れてきた。西門の蝶番、北壁の石継ぎ、見張り台の足元。食事を受け取った者がそこへ立つだけで、線だった守りが面へ変わっていく。
「料理で戦が変わるわけない、だったか」
配膳台の前で、槍を抱えたカリドウェンが口の端を上げた。だが今夜の笑みには、もう嘲りがない。
「前言撤回してやる。だから一番効くやつを寄こせ」
「一番効くのは、一番腹が減ってる人に回します」
イルネリオが椀を差し出すと、カリドウェンは受け取ったまま鼻を鳴らした。
「なら今の俺だ」
「毎回そう言う」
横からアクバルが言い、もう一つの椀をひったくるように受け取った。
古参兵は一口すすってから、若い槍兵たちへ顎をしゃくる。
「食った順に前へ出るな。二口目を飲み込んでから隊列へ戻れ。熱を慌てて飲むと腹が暴れる」
そんな細かな言い方ひとつで、緊張していた槍隊の肩が少し下がる。年の功は、こういうところへ出るのだとイルネリオは思った。
東の空がわずかに白みはじめたころ、北壁から最初の怒号が落ちてきた。
「見えたぞ!」
続けて、獣とも人ともつかない咆哮。谷を上がってくる鬼の群れは、朝靄を黒く濁らせながら迫っていた。骨を継ぎ合わせたような細長い腕、岩を噛み砕くための顎、獣皮をまとって跳ぶ小型のもの。その先頭に、見慣れた背丈があった。
人の姿を捨てたヴァルドである。
監査役の衣を脱ぎ捨てた鬼は、角を二本、肩口から黒い棘を生やし、嗤うたびに喉の奥で石を擦るような音を立てた。
「まだ鍋を振っているのか、守護鬼」
谷から響いてきた声に、町じゅうの耳が引かれた。
「街が空けば、お前の根は乾く。だから先に飢えさせてやったのに」
イルネリオの背骨を、冷たいものが這い上がる。
だがその前へ、レオニナが一歩出た。
「飢えなかったから、あんたの計算は外れたのよ」
そう言って彼女は屋台の木札をひっくり返した。裏に書いてあったのは、配給表ではない。
西門、北壁、祠前、見張り台、地下結界路。
今夜この町で人が立つ場所の並びだった。
鬼の第一波が北壁へぶつかった。
石が鳴り、楯が打たれ、矢が空を裂く。だが崩れない。シャルヴァが徹夜で仕上げた楯は、料理の効きを受けやすい細工が縁へ刻まれている。香草スープを飲んだ盾兵たちは呼吸を乱さず、ぶつかるたびに足元の石まで踏みしめた。
「押されるな、楯を返せ!」
シャルヴァ自身が壁上で槌を振り上げながら叫ぶ。柄尻で打ち鳴らす音が合図になり、前列と後列の入れ替えがぴたりとそろう。
一方、西門ではガータムが門扉の影で砂時計を睨んでいた。
相変わらず返事は遅い。だが鐘と怒号のあいだへ耳を差し込むみたいに、彼は一度だけ息を吸い込む。
「今」
短い声と同時に、門が半枚だけ開いた。
外へ誘い込んだ小型鬼の群れへ、カリドウェンの槍隊が突き込む。麦団子で踏ん張りの利いた脚が石畳を滑らず、突いては引き、引いては閉じる。鬼が数で押し寄せる前に、ガータムの手でまた門が閉まる。
遅い男の、正確すぎる時機だった。
ニコリナの歌は今夜、慰めではなかった。
高い見張り台と路地の角とをつなぐ、音の伝令だ。三拍で退く、一拍伸ばして右へ、低く落として負傷兵。歌の節に合図を埋め込み、言葉にできない速度で町を走らせる。
住民たちはその意味をもう覚えていた。子どもは水桶を運び、年寄りは空いた椀を洗い、畑を離れられないと言っていた家族までが、芋と豆を抱えて屋台へ戻ってくる。
誰かが戦って、誰かが見ているだけの夜ではない。食べた者が、次の一杯のために手を動かしている。
その流れが、イルネリオには結界の中で光って見えた。
椀から椀へ。鍋から手へ。手から持ち場へ。ばらばらだった営みが、砦の地下で一本の太い流れになっていく。
だが同時に、もっと深いところで、別の呼び声も強まっていた。
地下結界炉。
古い守護鬼が眠っていた場所が、彼へ向かって口を開いている。そこへ降りて力を注げば、この夜だけなら砦全体を覆うほどの結界を張れる。代わりに、自分は二度と人へ戻れない。
その理解が、説明されるより先に体へ入ってきた。
「イルネリオ!」
コンスエラの声が祠側から飛ぶ。巫女戦士は結界路の入り口で膝をつき、札を石床へ打ち込んでいた。
「北壁の上じゃない。来るなら下だ。結界炉が、お前を呼んでる!」
イルネリオはうなずき、屋台の縁へ手をついた。
レオニナがその気配を見逃すはずがない。
「行く気?」
「行けば、今夜だけは守れるかもしれません」
「その言い方、戻らないつもりの人の言い方よ」
彼女の目が細くなる。
イルネリオは答えに詰まった。嘘をつけばすぐ見抜かれる。だから沈黙した。その沈黙だけで十分だったのだろう。レオニナは一瞬だけ唇を噛み、それから周囲を振り返った。
「聞いて!」
彼女の声が屋台の下へ響き渡る。
「この町の守りを、一人に食わせない。鍋を持って下へ行く。フロイディス、火を落とさないで。シャルヴァ、結界路まで運べる台を。グンナル、残りの食数を全部数え直して。食べた記憶が多いほど、あそこは持つ!」
命令というより、未来をその場で決める声だった。
誰も問わない。誰も迷わない。
「帳簿ごと持ってけってことか、まったく無茶を言う」
そうぼやきながら、グンナルは売掛も寄付も区別なく木札をかき集める。
「でもまあ、踏み倒される前に勝てばいいだけだ」
シャルヴァは屋台の脚を一本蹴り外し、即席の担架へ組み替えた。フロイディスは鍋底の炭火を布で包み、煮込みをこぼさないよう縄で固定する。
アクバルは若い兵たちへ椀を押しつけた。
「食え。下へ行く連中が運ぶのは、お前らの腹に入った分も込みだ」
地下結界路へ降りる石段は、湯気と足音で白くかすんだ。
コンスエラの札が左右の壁で燃え、古い鍋と穀物の紋が橙色に浮かぶ。最深部の結界炉は、炉というより巨大な空の鍋だった。底なしの鉄釜みたいな円形の窪みがあり、その縁を古代文字が取り巻いている。
イルネリオが一歩近づくと、額の紋が熱ではなく痛みに変わった。
ここへ自分を落とせば終わる。
町は守れても、昼の約束は消える。
看板の名を一緒に決める未来も、ただいまと帰る場所も。
それでも足が前へ出かけた、そのときだった。
「一人で守るな!」
レオニナの叫びと同時に、大鍋が結界路の縁へ載せられた。
彼女は両手で柄を握り、沸き続ける煮込みを、結界炉へ向かって一気に傾ける。
麦、豆、塩肉、香草。今夜この町で食べられたものと同じ匂いが、熱い川になって古代の窪みへ流れ込んだ。
「皆で食べて、皆で守るのよ!」
その声に、フロイディスが二つ目の鍋を押す。グンナルが木札の束を投げ入れる。誰に何を貸したか、誰が何を返したか、その記録までが町の営みとして落ちていく。ニコリナは歌を地下へ響かせ、地上の住民たちが同じ節を口ずさむ。シャルヴァは楯を結界路へ立て、兵たちは空になった椀を打ち鳴らす。
食事の湯気と、人が同じ一杯を分け合った記憶が、炉の底で光になった。
イルネリオには見えた。
屋台の長椅子。泣きながら粥をすすった夜。麦団子を頬張って笑った槍隊。帳簿の前で豆乳粥を受け取ったレオニナの指。葦すだれの下で交わした昼の約束。
それらが全部、砦の結界へつながっていく。
一人の守護鬼の力ではない。町じゅうの、食べて生きようとした記憶そのものが、壁になって立ち上がる。
次の瞬間、地上で轟音がした。
北壁へ取りついていた鬼の群れが、見えない何かに叩き返されたのである。西門の上では青白い光が弧を描き、見張り台から見た街路の角という角に、薄い火が灯る。結界が町全体へ広がったのだ。
ヴァルドの咆哮が、初めて怒りに濁る。
「そんなものは守護鬼ではない!」
「ええ」
イルネリオは結界炉の前で立ち上がった。
額の痛みはまだある。だが、飲み込まれてはいない。
「俺一人なら、守護鬼だったかもしれません。でも今のルメリアは違う。鍋一つ分、みんなが守り手です」
ヴァルドが結界路の入口まで踏み込んできた。
半ば焼け、半ば裂けたその巨体へ、最初に槍を突き入れたのはカリドウェンだった。正面から一歩も引かない。続けてアクバルの剣が膝を払う。シャルヴァの楯が棘の腕を受け止め、コンスエラの札が角へ巻きつく。
最後に、イルネリオは屋台から持ってきた長柄の杓子を握り、ヴァルドの喉元へ叩き込んだ。
武器らしくもない一撃だった。だが鍋の熱を知る木が、鬼の喉の奥で鈍く鳴る。
次の瞬間、レオニナが横から塩の袋を裂いて叩きつけた。
白い粒が傷口へ噛み込み、ヴァルドの絶叫が地下を震わせる。
「帳簿を舐めた罰よ」
そう言い切る声が、妙に痛快だった。
巨体が崩れ落ちると同時に、地上の咆哮が遠ざかりはじめた。
北の谷へ押し返された鬼たちは、結界の光へ焼かれるように退いていく。見張り台の鐘が、今度は勝ち鬨ではなく、持ち場確認のために一定の間隔で鳴りはじめた。誰も浮かれない。崩れていないか、火は回っていないか、負傷者はどこか。勝つとはそういう確認を続けることだと、もう皆が知っていた。
イルネリオはその場で膝をついた。
全身から力が抜けていく。額の紋が焼けるように熱かったのに、次第に遠のく。人に戻れなくなる、という感覚は、結界へ呑まれた瞬間に確かにあった。けれど、その手前で誰かの手が何本も引き戻した。
見上げると、真っ先に差し出されたのはレオニナの手だった。
麻のエプロンは煤だらけで、指先には塩が白く残っている。
「立てる?」
イルネリオはその手を取った。
「……なんとか」
「よかった」
彼女はそれだけ言って、ようやく息を吐いた。泣きそうには見えない。泣くより先に次の配給を考える顔だ。けれど握った手の強さだけが、さっきまでどれほど怖かったかを語っていた。
地上へ戻る階段の上から、夜明けの光が差し込んでくる。
長い夜の終わりにしては、あまりにも静かな色だった。
イルネリオはその白さを見上げながら、胸の奥で一つだけ確かなことを知った。
守れたのは、砦だけではない。
昼に開くはずの屋台も、看板のないまま吊られている葦すだれも、その下でまた同じ鍋を囲むはずの人たちも、ちゃんと明日の側へ残ったのだ。