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#執着
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私たちが向かったのは、名城線沿いに建つ百貨店。
その最上階には、医大生だった頃、デートで利用した中華料理店がある。
チェーン店とは違い、少し値の張る料理が並ぶメニュー。
お互いの誕生日や試験の最終日など、特別な日だけ二人で訪れていた店だ。
最後に来たのは、三年前の結婚記念日だっただろうか。
以前と何も変わらない店内。
そして、以前よりもきらびやかに映る街のネオンへ視線を移し、小さく息をついた。
「俺は酢豚と蟹炒飯。それと黒ビールな」
遼はそう告げると、メニューをテーブルへ置くなり立ち上がった。
「……どうしたの?」
私はまだメニューを手にしたまま、彼を見上げて目を瞬かせる。
「電話してくる。注文しといて」
「電話……誰に?」
「竹田だよ。店に着いたら電話するって、さっき言っただろ」
「……ああ、うん。そうだったね」
「あ、それとフカヒレスープも頼んどいて」
遼はそう言い残し、私へ背を向けて歩き出した。
「分かった……」
彼の耳には届かないほど小さな声で返事をする。
私はメニューをテーブルへ置き、ゆっくりと店内を見渡した。
雑誌にも掲載される人気店。
以前と変わらず、家族連れやカップルで賑わっている。
四人掛けのテーブルに一人ぽつんと座る自分だけが、この華やかな世界から取り残されてしまったような気がした。
「夫婦水入らずのデートなんでしょ……。注文する時くらい、一緒にいてくれてもいいのに」
やるせない思いが胸へ押し寄せる。
私は夫の姿が消えた店の入り口を見つめ、唇をきゅっと噛みながら、再びメニューへ視線を落とした。
注文を終えて、およそ十五分――。
胸のざわめきだけが、時間の流れをゆっくりと引き延ばしていく。
「カンファレンスって……何の症例の話をしてるんだろう……」
時計と店の入り口を何度も見比べながら、気を紛らわせるように夜景へ視線を移す。
それでも胸のざわめきは消えず、私は何度もため息をついていた。
「悪い。話が長くなった」
遼がテーブルへ戻るのと同時に、店員がスープと酢豚、そして私の好きな海老チリを運んできた。
「お帰り。竹田先生が担当してる症例って何なの?」
私はさりげなく声を掛け、夫へ笑みを向けた。
「ファロー四徴症」
「ファロー四徴症? 先天性なんだ……。じゃあ、近いうちにオペ?」
私は小皿へ酢豚と海老チリを取り分け、遼の前へ置いた。
「オペしたいんだけどな……家族の事情があって、なかなか複雑なんだ。竹田もICで苦労してるらしい」
そう言って苦笑いを浮かべると、遼はグラスを持ち上げ、私へ差し出した。
「えっ?」
私は小皿を持ったまま、差し出されたグラスを見つめて大きく目を瞬かせる。
「『えっ?』じゃなくて、お祝いの乾杯だよ。ほら、亜紀もグラス持て」
「あ、そうか。……って、まだ私、何のお祝いか聞いてないよ」
不意を突かれ戸惑いながらも、慌てて烏龍茶のグラスを手に取り、眉を寄せた。
「お前が去年書いた論文。『虚血性心疾患の画像診断の有効性』が、神奈川京明医大の中川教授から高く評価された。
もしかしたら、関東循環器病センターから声が掛かるかもしれないぞ」
「えっ……? 嘘……。待って、中川教授? 循環器病センターから声が掛かるって……」
「引き抜きだ。あの循環器のスペシャリストが集まるセンターに、亜紀が行けるかもしれないんだ」
目を丸くする私を見つめ、遼は心から嬉しそうに笑った。
「引き抜きって……私が関東循環器病センターに?」
あまりにも突然の報告。予想もしなかった言葉に、私は瞬きすら忘れた。
循環器病センターとは、その名の通り循環器疾患を中心に診療する専門医療施設。
心血管疾患はもちろん、脳血管疾患においても最先端の医療を提供する、日本有数の循環器専門施設だ。
全国に数か所しか設置されていない循環器病センターの中でも、関東循環器病センターは最も新しい。
将来、循環器医療を担う若い医師――
いわば「日本の循環器医療を背負う次世代のエース」の育成にも力を入れていると聞く。
そして、「心臓の名医」と称される神奈川県在住の中川教授も、そのセンター設立に大きく貢献した人物だと耳にしたことがあった。
「亜紀んとこのトップ、佐橋教授が中川教授と高校の同級生だったって知ってたか?」
愕然とする私をよそに、遼は嬉しそうに話を続ける。
「えっ!……そうなの? 知らなかった」
「だろ? 俺も知ったのはつい一昨日だ。亜紀の論文が評価された話と一緒にな」
「一昨日って……一昨日も昨日も、私には何も言わなかったよね?」
「ああ、言わなかった。だからこうして報告も兼ねて祝ってやってるだろ?」
目を丸くする私を見て、遼は可笑しそうにくくっと喉を鳴らした。
コメント
1件
あ、このエピソード、静かにじわじわ来ましたね……。最初は「また電話か」って亜紀の寂しさに胸がぎゅっとなったんですけど、まさか遼がああいう形で戻ってくるとは。自分のキャリアを心から喜んでくれる存在がそばにいるって、それだけで十分特別なのに、彼はそれをちゃんと形にして伝えてくれる。中華料理店のちょっとレトロな空気感と、夫婦の空気の変化がすごく丁寧に描かれていて、読んでてほっこりしました。続きも楽しみにしてます!