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一年後の春。
白椿トイズの新作発表コーナーには、「椿のリボン」が当たり前のように並んでいた。
親の声、祖父母の声、きょうだいの声。短い言葉を預かるぬいぐるみとして、店頭でも通販でも、思った以上に長く愛されている。
売上の数字も悪くない。けれどそれ以上に、届いた手紙の量が多かった。
「“単身赴任の父の声を毎晩聞いて寝ています”」
ペトロニオが手紙を読み上げる。
「“亡くなった祖母が生前に録音した言葉を入れ直して、娘に渡しました”」
「それ朝から読むの反則」
クリストルンが言う。
「俺もそう思う。だから朝一で読んだ」
「性格が悪い」
「広報向きって言って」
企画部の机の上には、新しい試作がいくつも転がっている。
新入社員だったクリストルンは、今では新作ラインの中心で話す側になっていた。相変わらず走り出すと止まらないが、その横には止める人も、支える人もいる。
「次の会議、五分後」
ルチノが資料を差し出す。
「了解」
自然に交わされるやり取りに、最初のぎこちなさはもうない。
恋人らしい空気は職場では控えめだが、隣に立つことはすっかり日常になっていた。
午後、仕事を終えたクリストルンは、夕暮れの坂道を上って月椿堂へ向かう。
店先では、モンジェが近所の子どもにぬいぐるみの耳の縫い方を教えていた。
「違う違う、そこで引っ張りすぎると顔が怒る!」
「えー、難しい!」
「難しいから面白いんだろ」
「モンジェさん、それ前にも言ってた」
「いい言葉は何回でも使う!」
豪快な声に、子どもたちが笑う。
その輪の外で、婚礼家具の一部を直した小さな棚が店の隅に置かれていた。母の名残は、もう箱の中だけではない。今の暮らしの中に、ちゃんと馴染んでいる。
「ただいま」
クリストルンが声をかけると、モンジェが振り向く。
「おう、おかえり」
その言葉が、今はもう自然に返ってくる。
ふと見ると、店の隅で一人の女の子が「椿のリボン」を抱いていた。
胸のボタンをそっと押すと、小さな声が流れる。
『すぐ帰るよ。待ってて』
たぶん、仕事帰りの母親の声だ。
女の子はそれを聞いて、くまの耳に頬を寄せる。そして顔を上げ、にこっと笑った。
「ただいま」
その子が言った。
一瞬、店の空気がやわらかく止まる。
帰ってきたのは母親の方かもしれない。けれど、その子の中では、声が届いた時点で、もう“帰ってきた”のだろう。
クリストルンは思わず笑った。
その笑みを見て、モンジェも、ルチノも、店にいた子どもたちもつられて笑う。
眩しいくらいの笑みが、夕暮れの店先にいくつも重なった。
思い出を預かる質屋。
言えない言葉を預かる玩具。
失ったものを数えるだけだった日々は終わり、これから渡せるものを数える日々が始まっている。
夕暮れ坂に春の風が吹く。
椿の鉢が揺れ、柔らかなリボンが店先でふわりと動いた。
その先の未来は、まだいくらでも続いていく。
けれどクリストルンは、もう知っている。
誰かを助ける言葉は、遠くにある特別なものではない。
こっちを見て、ただいま、おかえり、待ってるよ。
そんな短い一言が、人の人生をちゃんと支える。
だから今日もまた、声は渡っていく。
親から子へ。子から親へ。
ほどけそうで、ほどけないものとして。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙