テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「俺も今から帰るところだ。ホテルまで送ってやるよ」
「えっ、ホテルまで送るって……」
思わず目を見開き、言葉を詰まらせた。
「何だよ、その顔は。……ああ、そうか。ちゃんと日曜に話し合いの場を設けるんだ。安心しろ、今から無理やり家に連れて帰ろうなんて思ってない」
警戒心を剥き出す私を見下ろしながら、彼はふっと穏やかな笑みを浮かべた。
何なの……
この冷静な態度は……。
彼が醸し出す空気に違和感を覚え、心臓が警鐘を鳴らすかのように激しく脈打つ。
身体が彼を拒絶している。
一度は本気で愛した男なのに――
二度と受け入れられない。この声すらも――。
「……まだ話し合いは終わってない。だから駄目よ。私に近づかないで」
込み上げてくる濁った感情を抑え込み、咄嗟に視線を逸らした。
遼は深いため息を一つつくと、少し間を置き、静かな声で沈黙を破った。
「夫に対して随分と酷い言いようだな。……俺は、亜紀に出て行かれて正直参ってる。
だけど、こうして離れることでおまえの気が済むのなら、好きにしたらいい」
「……は?」
「時間が必要なのは分かってる。もう強引なことはしない」
言い終えた夫は目を細め、口の端を下げた。
私の気が済むまで好きにしたらいい?
時間が必要なのは分かってる?
……まさか、復縁を前提に言ってるの?
そうやって優しい言葉を掛ければ私が戻ってくると、飼い慣らした小鳥のように自分の手のひらに帰ると、そう思ってるの?
沸々と怒りが湧く。けれど身体は、彼の言葉に呼応して心拍数を上げていく。笑顔を向けられても身体が萎縮してしまう。
「……こんな場所でする話じゃない。ただでさえ私達は噂の的なのに」
「人の噂も七十五日。災いの元は姿を消した。すぐに鎮静する」
「災いの元は姿を消した? ……あなたは本当に何も分かっていないのね。あの子はいつも私達を見てる。傍にいる――」
野心に駆られた、あなたの遺伝子を宿して――。
「傍にいる? どういう意味だ」
遼は苦々しく言って、顔を歪めた。
「あの子がこのまま黙って姿を消す女だと、本気で思っているわけじゃないでしょ?」
「……」
押し黙った彼の背中越しに、私服姿の麗香が見えた。
険しい顔をした彼女は、こちらの様子を窺いながら立ち止まっている。
「あなたが自分で招いたこと。決着は自分でつけて。……麗香が迎えに来たから行くわ。じゃあ、日曜の十九時に――」
冷たく言い置いて、彼の横を通り過ぎる。
立ち去る背中に感じるのは、今にも背後から肩を掴まれそうな視線。
楓との決着は、遼、あなた自身でつけるのよ――。
心の内で噛み潰すように言って、微かに震える手を固く握り込んだ。
「ごめん、麗香。迎えに来てくれたの?」
背中に感じる視線から逃れようと、急いで麗香のもとへ駆け寄った。
「更衣室に亜紀の姿がなかったから……まだ医局にいるのかと思って、探してた」
麗香は視線の先に立つ彼を見つめ、露骨に嫌な顔をしている。
「ちょっと机の整理をしてたの。私もすぐに着替えるから」
私は麗香の腕を掴み、その場から一刻も早く立ち去ろうと足を速める。
「旦那に何か言われたの?」
「……ううん、別に。とにかく病院を出よう。ここにいると息が詰まりそう」
私は未だ続く動悸を静めようと、深く息を吸い込んだ。
――おそらく、遼は離婚に応じない。
さっきの態度ではっきりした。ここまで破綻した夫婦関係でも、何もなかったような顔をして、また二人で同じ朝が迎えられると自負している。
あなたは気づかない。
壊れてしまった器の形は元に戻せても、地面に零れ落ちた水は、二度と器には戻れない。
あなたは知らなすぎる。
愛に溺れた女の執念を。
嫉妬に狂った女の、本当の怖さを――。
乾いた喉に生唾を落とした。前を向く私は振り返らず、親友と並んで長い廊下に足音を刻んだ。
――二日後。
名古屋駅の地下鉄を降りた私は、川のように絶えず流れていく人波に背中を押されながら、地上へ続く階段を上った。
恐怖に引きずり込まれるような重い足取り。階段を上り切って視線を伸ばすと、高層ビルの煌びやかな照明が目前に広がった。
いつもなら惹きつけられるその華やかな灯りが、今は色褪せて目に映る。
人の流れに逆らうかのように、運ぶ足の速度が無意識に緩む。
目の前にそびえ立つのは、JRセントラルタワーズ。
名古屋駅の真上にそびえるツインタワーだ。
ここで今から離婚の話を――
楓から受け取ったあの事実を、夫に突きつける。
「はぁ……」
身体ごと地に堕ちてしまいそうなため息をつき、建物の入口へと足を向けた。
約束の時間は午後7時。腕時計はまだ6時30分を示していた。
早く来たのは、遼よりも、そして楓よりも先に席に着き、心の準備をしたかったからだ。
獲物を罠にかけるように待ち構えられるよりも、自ら先にその場へ赴き、冷然とした態度を保っていたい。そう考えたからだった。
セントラルタワーズに入り、シャトルエレベーターでホテルロビーのある15階へ上がる。
磨き上げられた床を横切り、高層階行きのエレベーターへ乗り換えた。
目指すのは52階にあるレストラン。
扉が閉まり、耳を圧するような速度で上昇が始まる。
地上から遠ざかっていく感覚が、かえって緊張を募らせた。
高層階へと向かうこの箱は、今の私にとって、まるで戦地へと続くゴンドラのようだ。
せわしない動悸が胸を打つ。鎮めようと深呼吸をして、肩に掛けたショルダーバッグへ視線を落とした。
ベージュ色のバッグに忍ばせているのは、離婚届と例の証拠。
高級ホテルのレストランに持ち込むにはあまりに不似合いで、その演出こそが楓の狂気そのものに思える。
『楓はまだ何かを企んでいるかもしれない。護衛として私もレストラン内に身を潜めていようか?』――私を心配して言ってくれた麗香の言葉。
彼女の気遣いは嬉しい。正直、何が起こるか分からなくて尻込みしそうになる。
けれど、これは私一人で片をつけなければならない。
……麗香。私、上手くやってみせるから。やっと見つけた自分の進むべき未来。もう二度と後悔はしたくない。
……今泉さん。私を守って。
彼から貰った“お守り”を握る。フェンネルの種――あの夜から、片時も離さず身につけている。
この籠から抜け出すためにあなたと出会った。手に入れた自由の先に、あなたとの新しい関係が開かれる。――そう私は信じてる。
大きく息を吸い込んだその時、ベルの音とともに扉が開かれた。
意を決した私は夜の闇に群れる光から目を逸らし、高級感が漂う空間に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか?」
「はい。七時に予約をした宮坂です。……時間が早いのですが、大丈夫でしょうか?」
「はい。席をご用意しております。どうぞこちらへ」
柔らかな笑顔を向けたスタッフに案内されたのは、夜景が一望できる窓側の席だった。
広々とした店内。テーブル同士の間隔には十分なゆとりがあり、隣席で交わされる会話も耳には届かない。周囲を気にせず、落ち着いて食事を楽しめる造りになっている。
愛を語り合える恋人と訪れたなら、きっと素敵な雰囲気を味わえるだろうに……
無意識に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
視線だけをさりげなく店内に巡らせ、スタッフが引いてくれた椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「お食事は、今夜のスペシャルディナーコース料理と伺っております。お飲み物はお連れ様がお見えになられてからでよろしいですか?」
気を張り詰める私に掛けられた声。
「あっ、はい。後からでお願いします」
“彼女”の姿を探していた私はハッとして、慌てて返事をした。
見渡せる範囲には楓の姿はない。彼女はここに姿を現すのだろうか。それとも、携帯電話で私と遼の会話を盗み聞きするだけ?
――いや。彼女なら、私達の結末をその目で確かめようとするはず。見届けようと考えているはず。
広々としたオープンスタイルのこの空間のどこに、身を潜めるつもりなの?
「スペシャルディナーコース料理と伺っております……か」
コース料理を予約したのは楓だ。
こんな夜にスペシャルディナー?
「どこまでも馬鹿にしてっ」
テーブルの上に置いた携帯電話を握り締め、苦虫を噛み潰すように言葉を吐き捨てた。
管野アリオ
1,048
瑠璃マリコ
4,205
#大人ロマンス
桃下結衣
478
コメント
1件
いやあ、153話、読み終わりました。冒頭の夫・遼とのやりとり、すごく重くて引き込まれましたね。「壊れた器の形は戻せても、零れた水は戻らない」—— この比喩、物語の芯を掴んでいて、設定の好きな自分としては「そう来たか」と膝を打ちました。 それにしても、フェンネルの種をお守りにする描写、第1話から拾ってくる読者としては滾りますね。「籠から抜け出す」という彼女の決意と、楓の“スペシャルディナー”の皮肉—— ここにきて全ての布置が一気に収束していく感覚。次、どう動くのか、続きが気になって仕方ないです。