テラーノベル
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「この間はご主人を危険人物だと言っていたが。今度は亜紀が悪女に変貌して、俺を脅かすのか? ……なるほど。女として熟した亜紀の悪女ぶりも見てみたい。きっと才女の悪女は誰よりも陰惨で、美しいだろうな」
緊張のかけらもなく笑い声を立てる彼は、ヘッドライトが照らす下り坂に視線を置いている。
「陰惨で美しいって……もうっ、すぐそうやってはぐらかして!」
自分の手の中で育てた女は、我を忘れ惨めな女に成り下がりはしないと、きっと高を括ってるのね。
それとも「成り下がるなよ」と、遠回しに念押ししてるつもり?
「……狡い人。乗せられて、奥さんのことなんて正直に聞くんじゃなかった」
これみよがしに深いため息を吐いて、口を尖らせる。
「あれ? 言いだしっぺは亜紀なのに引いちゃうの? だけど……そうだな、まだその時期じゃない」
「……まだその時期じゃない?」
彼の横顔をジッと見て首を傾げる私。
「亜紀には、今やらなきゃならないことがあるんだろ? この里帰りはその第一歩。昨日、メールで俺に話があるって言ってたけど……何か道が見えてきたんだろ?」
穏やかに言う彼は助手席に手を伸ばし、ギュッと私の手を握る。
確かにそうだ……。
今ここで、彼に不信を抱いて心を乱してる場合じゃない。
以前と変わらぬ二人の間に波風を立てて、一人で嫉妬している場合でもない。
「……今泉さん。私、お母さんを連れて関東循環器病センターに行く」
「関東循環器病センター?」
「以前に話したよね? 誘われてるって。私が向こうに行けば、落ち着いてお母さんの治療に携わることができる。夫からも離れられるし、お金も返すことができる」
「……ちょっと待った。だけど、その病院はいずれにせよご主人が後を追ってくる予定じゃなかったのか? 何かセンター乗っ取りの陰謀がどうとか……だから、亜紀はそこにだけは行きたくなかったんじゃないのか?」
彼はチラリと私を見て、面食らったような顔で戸惑いの声を上げる。
「主人は私に秘密を話してしまった……まさかこの私が、自分の敵に回ると考えもせずに。
先に内部に入ったもん勝ちよ。主人の陰謀は阻止する。取り敢えず私がそこにいる二年間は、主人を内部に入れさせない」
「二年間? ……その後は?」
「母と兄と一緒に故郷で暮らす。家族がバラバラになるのはもうイヤ。私は、あの町の医者として生きていく」
私は迷いのない言葉を連ね、曇りのない目を彼に向けた。
「関東に二年間、その後は生まれ故郷で町医者になる、か……」
今泉さんは私の意志を声で辿った後、何か言いたげな雰囲気を漂わせて口を噤んだ。
「馬鹿だって思った?」
「馬鹿……? どうして?」
「大学病院で認定医の資格を取って、それを最大限に活かせる専門の施設にも赴任できるのに。この歳で早々と終着点を田舎に決めるなんて……。同僚に話したら、口を揃えて『キャリアを捨てる馬鹿だ』と言うに決まってるから……」
薄笑いを浮かべ、語尾をすぼめた。
「じゃあ、皆に反対されたら田舎に戻るのをやめるのか?」
「ううん、やめない。……田舎にはね、病院に行きたくても我慢してる人たちがたくさんいるの。交通手段がなかったり、保険制度の改正で高齢者への負担額が増えて、金銭に余裕がなかったり。母がね、私に言ったの。通院するにも体力が衰えてて辛いって……。町の中には病院にも行けず、風邪をこじらせて肺炎で亡くなる人もいるって……」
「町に医者はいないの?」
「小さな診療所はあるけれど、先生も高齢でできることは限られてる。使う薬剤だって治療だって、一昔前と今とじゃ変化していることがたくさんある。高齢になった医師が、新しい治療を取り入れるのに躊躇するのは仕方のないこと。だからこそ、医療の歴史を引き継ぎ、なおかつ現代医療を提供できる医師が必要なの」
それが、母と兄と過ごした二日間で導き出した答え。町の人達の変わらぬ温かさに触れ、自分の中に必然的に湧き起こった強い意志。
それはきっと、縋りついていた現実を自ら壊すと決めた今だからこそ見える、未来へ続くレール。
「古き時代の職人の技を引き継ぎ、更には最先端の知識と技術までも融合させるか……医療の現場だけじゃなく、あらゆる専門分野に必要な風だな」
私の言葉を聞いた今泉さんは、少し間を置いて呟きのような言葉を落とした。
「身の程を弁えずに大口叩いちゃったけど、それが私の目指す道だと思ったから……理想は大きく持たないとね」
堂々と言い切ったものの、きっと傍から聞けば理想論を語るただの豪言壮語に違いない。
急に彼の心の内が気になって、しおらしく声のトーンを下げる。
「どうした? 急に弱気になって」
「別に弱気になったわけじゃないけど……ここはちょっと謙虚になるべきかと思えてきて」
「何だよ、それ。俺に対して謙虚になる必要もないだろ?」
私の不安を畳んで丸めて吹き飛ばすように、彼が口を開けて笑う。
「うん、そうなんだけど……」
「色々と診療準備で大変だろうけど、大丈夫だ。亜紀ならそれを理想で終わらせない。俺は『キャリアを捨てる』だなんて思わないぞ。どんな場所に行こうと、今まで培ってきたそのキャリアをどう活かすかは自分次第だ」
「うん、そうだよね……」
「それに、万人を助けたいと言うよりも、一人一人の身に寄り添って100人を助けたいと一生懸命になる方が、人間味があって俺は好きだぞ」
ニッコリ笑って言う彼は、まるで子供を褒めるかのように私の頭に手のひらを乗せ、優しくポンポンと撫でる。
今泉さん……
彼の言葉は、いつも私に無限の力をくれる。
静かな湖にさざ波が広がるように心に沁みて、温かさで包み込んでくれる。
「……今泉さん、今夜は何時まで一緒にいられるの?」
フロントガラスに映る、星影が霞むほど鮮やかな月光を見つめて声を落とした。
「んん? そうだなぁ、亜紀の可愛い寝顔にキスしたら帰ろうかな」
「えっ……」
……寝顔にキスって。
今夜もそんな遅くまでいいの?
奥さんはやっぱり存在してた。存在してるのに……
彼の澄ました横顔に目を向けて、喉に纏わりつく心の声を飲み込んだ。
さっき言ってた『まだその時期じゃない』って、本当はどういう意味なの?
私の身の周りが落ち着いたら、今まで言えなかったことを話してくれるってこと?
今すぐにでも聞きたいけれど、彼が「今は駄目だ」と言うならば、言われるまま知るべき時ではない気がしてしまう。
そこにあるのは絶対的な信頼感。
……いや。本当は、曖昧さの中で私自身が作り出した彼の姿に依存しているだけなのかもしれない。
けれど今は、自分を突き動かしてくれるその彼の存在が必要で――
「……そんなこと言われたら、朝まで眠りたくなくなっちゃうよ。早く、あなたの体温が欲しい……」
――全ての思考を奪い、熱に溺れるような快感が今は必要で。
彼の手を引き寄せ、唇でなぞるように口づけをする。
「欲張りな亜紀。じゃあ、夜が明けるまで抱き合っていようか?」
彼はその長い指で私の頬を撫でて、フッと優越の笑みを浮かべた。
コメント
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「寝顔にキスしたら帰る」「朝まで抱き合おうか」——亜紀の体温が欲しい…ああ…」 もう、この二人の駆け引きが本当に好きだなあ…。隣に奥さんの存在をまだ気にしてるのに、それでも信じるしかない葛藤がすごくリアルで…亜紀の「自分を作り出した彼像」に縋るみたいな感覚、分かる気がするよ。田舎医者の決意は本当にかっこよかった!読んでて心が温まった🌙✨
管野アリオ
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瑠璃マリコ
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#大人ロマンス
桃下結衣
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