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#大人ロマンス
桃下結衣
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――三日後。
「そうか、やっと決意してくれたか。中川主任教授は、宮坂先生の画像診断力を非常に高く評価してる。この話を聞けば、今すぐにでも来てくれと催促が入るはずだ」
私の目の前にいるのは、圧倒的な存在感と権力を漂わせる循環器内科の重鎮、佐橋主任教授。
その背後に見えるのは、私が生涯、決して腰を沈めることなどできないであろう、高級感漂う本革張りのオフィスチェア。
教授はその社長椅子に深く腰掛け、私を眺めるようにして満面の笑みを浮かべている。
「現在、循環器センターでは、アブレーション治療、デバイス治療、そして外科治療と組み合わせたハイブリッド治療をはじめ、24時間365日体制でカテーテル治療を行っている。日本でも三本の指に入る高度循環器医療施設だ。
そのような場に君のような優秀なスタッフを送り出せるとは、僕としても鼻が高いよ」
「いえ、もったいないお言葉をありがとうございます。佐橋主任教授と中川主任教授のご厚情に感謝し、ご期待に添えるよう、さらなる努力をしていく所存です」
私は背筋をぴんと伸ばし、教授に深々と頭を下げた。
「ああ、そう言えば。君のご主人は外科医としての腕は最高級だが、少し個人プレーが過ぎるようだね。難易度の高い症例にも怯まないと、藤堂教授がえらく腕を買っているようだが、チームプレーを乱すのは好ましくないねぇ」
頭を上げたと同時に、耳に飛び込んできた言葉。
「……はい、おっしゃる通りでございます。申し訳ありません……」
「いやいや、別に君を責めてるわけじゃない。夫婦といえども、仕事の上では切磋琢磨し合うライバル同然。しかも、同じ科の内科と外科。足の引っ張り合いも余興のうち。
強すぎる野心はいつか身を滅ぼす。僕は藤堂教授と違って、石橋は割れるほど叩いて渡りたい主義だから。部下と一緒に共倒れは御免だからねぇ。
良かったよ、慎重派で誠実性の高い君が僕の部下で。ご主人だったら手に余る」
「……はい。申し訳ありません」
複雑な思いに駆られ、唇を引き結んで視線を落とす私。
「ははっ、そんな顔をしないでくれよ。これは優秀な夫婦に対する、僕なりの褒め言葉だよ」
佐橋教授は私の心を覗き込むような視線を向けると、背もたれに身を預けて大きく仰け反り、笑い声を上げた。
夫婦といえどもライバル同然。
足の引っ張り合いも余興のうち。
強すぎる野心はいつか身を滅ぼす……。
佐橋教授の言葉が頭の中でリフレインする。
まるで、この狂った夫婦関係を見透かされているようで、怖気を震う。
私は医局へ向かう廊下を俯き加減に歩きながら、足元に根を張りそうなほど深いため息を吐いた。
渡り廊下の窓にふと目を向けると、飛び込んできたのは西の空に浮かぶオレンジ色の太陽。
沈みかけた夕日を浴びて、街の上空に広がる薄雲が茜色に染まっている。
「亜紀っ!」
一日の終わりを告げる空を見つめる私の背中に、聞き慣れた声が掛かる。
「……あ、麗香。もう検査終わったの?」
ワイン色のスクラブユニフォームの上に羽織った白衣をなびかせ、こちらへ駆け寄ってきたのは親友の麗香。
「うん、今終わったとこ。それより佐橋教授と話はできた?」
どこから私の背中を追いかけてきたのか。麗香はわずかに息を切らしながら、急かすように尋ねた。
「うん、話できたよ。大丈夫、私の準備ができ次第、あっちに異動できるように話を進めてくれるって。
お母さんの話も大丈夫。異動したらすぐに、私が手術に関われるよう佐橋教授からも頼んでくれるって」
「本当!? 良かったぁ。中途半端な時期だから、今年度は駄目って言われるかと思ってヒヤヒヤ……。ああ、ここでこの話はマズいわね。あんたたち夫婦、早くも時の人になりつつあるし……」
突然辺りを見回した麗香は、私の腕を掴み、その場から逃げるように廊下を歩き出した。
人目を避けようとする私たちが選んだのは、いつもの場所。昼間は人気のない当直室の一室だ。
内緒話をする際には、昼間は当直室、夜間は人間ドック棟のデータ解析室に籠る。それがいつの間にか、私たちの当たり前になっている。
「今日、消化器外科病棟のナースがステーションで噂してたわよ。宮坂遼一が、オペ室ナースと不倫してたらしいって」
閉じたノートパソコンが置かれた机にもたれ掛かり、麗香は眉間に皺を寄せて深いため息を落とした。
「そう、消化器外科病棟にも……。麗香が言ってた通り。この手の噂って、広まるのが早いのね」
苦笑しながら、私は冷たいシーツの上に腰を下ろした。耳に届いたのは、ベッドの鉄パイプが軋む音。
「子を孕んだとまでは言ってなかったけど。そのうちありもしない付属品までくっ付いて、さらに炎上していくわよ」
「……そうね。妻と愛人が殴り合いをした、なんてドラマ並みの泥沼シナリオが完成するかも」
「そのシナリオ、亜紀が関東に異動したと同時に、きっと愛人に軍配が上がるわね。
亜紀の選択にはもちろん賛成する。残していく仕事の引き継ぎもする。
だけど、ここに残る私としては、やっぱり腑に落ちないのよ。妻が負けたと思われて、噂が鎮火していくのが」
腕を組んだ親友は、「はぁ~っ」と声が混じるほどの嘆息を漏らす。
「里帰りする前の私だったら、そう思ったかもしれない。だけど、進む道が見えたら、そんなちっぽけなプライドなんてどうでもよくなっちゃった。
それに、実際に私はあの子に負けたのよ。あの子の存在がなかったら、今の私はいない。
今まで私が築いてきたものを、あの子が壊したのは紛れもない事実だわ」
「もし、楓の存在がなかったら……そう考えたことある?」
麗香は少し間を置いて、私の表情を窺う。
「もちろん、あるわ。楓がいなくても、あの人はきっとどこかの誰かと浮気をしてる。
子供の存在はなかったでしょうけど……きっと浮気性は病気なのよ。断ってもまた同じことの繰り返し。精神の不治の病。
……結局は私も同じ。どんな状況に置かれていても、心も体も今泉さんを求めて疼いてしまうから」
「そうね……だけど、亜紀の病の根源に猛毒性はないじゃない。
中には甘い蜜と共存する毒性に気づかず、精神を破壊してしまう者もいる。不倫に溺れた女は、大抵、自分の足元すら見えなくなるものよ。楓の執着心がそう。あの娘の姿こそ、女の執念そのものだわ」
麗香は汚いものでも吐き捨てるように言い、艶やかな唇を歪めた。
「……それは、相手によると思う。相手が今泉さんだから、私は常に心にブレーキを掛けることができる。自分を見失わずにいられる。
欲望だけに走って、その場限りの愛情を注ぐから、女は狂ってしまうのよ」
私は友人に向けていた視線を床に落とし、得も言われぬ楓の姿を思い出して、ため息混じりの言葉を漏らす。
「亜紀が蛍の君と出会った頃、『今泉さんと一緒にいれば、不倫をする者たちが何を望んでいるのかが分かる』……そう言った、私の言葉を覚えてる?」
突然話題を変え、麗香が目を細めてにっこりと笑った。
「う、うん。覚えてるけど……」
きょとんとして、私は机に寄りかかる友人を見上げた。
「人は欲張りで、できることなら現実の中に違う自分を見つけ出したいと願ってる。それを実現しやすいのが恋愛。どんなに時代が変わっても、恋愛で得られる刺激は変わらない」
「直江先生も言ってた……不倫は、快楽を得たいがためのただのお遊びだって」
「……ああ、あいつの場合はそうかもね。下半身でしかものを考えない奴だから」
直江先生の名前を聞いて、麗香はいかにも嫌そうな顔をして舌打ちする。
「刺激には色々あるじゃない。亜紀みたいに、愛されることで強さを得る人もいる。周りに何を言われても、挫けちゃ駄目よ。……まずは、旦那ね。離婚届はもう取りに行ったの?」
「……うん、今日の昼休みに」
「そう、……それで、いつ話をするの?
思ったんだけど、マンションに行くのは危ないんじゃない? ほら、この前のこともあるし……」
麗香は自分の顔を撫で、顔をしかめる。彼女が心配しているのは、私の身の危険。
時の流れとともに青あざは消えても、凌辱された憎しみと心に刻まれた恐怖心が消えることはない。
「うん、分かってる。今週末に……」
――私が口を開いた、その時。
コンコンコン……。
突然耳に飛び込んできたのは、静寂の中に響くノック音。
私はびくっと肩を跳ね上げ、息を止め、麗香とともに恐る恐る叩かれたドアを凝視する。
コメント
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みぅです、読みました🥀 今回は佐橋教授との重い空気、そして麗香との内緒話…すごく緊張感があって一気に引き込まれました。特に「夫婦といえどもライバル」って言葉、亜紀の心に刺さったでしょうね…私もゾッとしました。ラストのノック、誰だろ…続きが気になりすぎます🌙