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会場を満たしていたざわめきは、ジナウタスの名乗りでいったん凍りついた。銀の皿を持った給仕たちまで足を止め、アルノー・カーデンもワイングラスを置く手をわずかに遅らせる。
セルマだけが、息を呑んだまま声を失っていた。知ってしまった、という顔だった。隠してきたはずのものが、とうとう人前へ出たときの顔だ。
ジナウタスはその場の視線を一つも避けず、続けた。
「創業時の出資と共同相続に関する権利は、現時点で放棄していない。よって、売却調印の手続きは保留できます」
大広間の空気が一気に動く。客席からも、裏方からも、小さな声が波のように広がった。
アルノーは椅子にもたれ、面白くもなさそうに口角だけを上げる。
「肩書きだけでは止まりませんよ。相続人を名乗る人間など、後からいくらでも現れる」
「名乗るだけのつもりはない」
ジナウタスの声は低いままだったが、その静けさがかえって強かった。夜中の機械音の中でも届く声だ、とディアビレは思う。人を脅すためではなく、持ち場を守るために鍛えられた声。
セルマがようやく絞り出す。
「今さら出てきて、何をするつもりなの」
「壊される前に止める」
短い返答だった。けれど、それだけで十分だった。ジナウタスが戻ってきた理由も、名乗らなかった理由も、その一言にほとんど含まれている。
ディアビレは給仕用のトレイを持ったまま、指先に力が入るのを感じた。あの人は逃げない。今、ようやく皆の前でそれを選んだのだ。
アルノーはゆっくり立ち上がった。
「では、証拠を。正式な権利関係を示す資料がない限り、私はこの場を止める理由を認めません」
窓の外で風が強く窓枠を鳴らす。まるで時間切れを急かす音だった。
ジナウタスは一歩も引かなかった。だが、証拠という言葉が落ちた瞬間、会場の緊張は別の形に変わる。ここから先は、名乗りではなく、積み重ねた真実が要る。
その時、大広間の後方で扉がもう一度開いた。冷たい風と一緒に、見慣れた写真鞄を肩にかけた男が入ってくる。
オラシオだった。
#恋愛
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