その日は雲ひとつ無い青空だった。
「おじいちゃん、おばあちゃんおはよう!」
朝起きるとテラスでティータイムをしている祖父母に挨拶をする。
「おはようみや、誕生日おめでとう。こんなに大きく健康に育ってくれて私は嬉しいよ」
「みや、誕生日おめでとう。今日から貴女も大人の女性の仲間入りね」
そう言って優しくハグをしてくれる。そんな毎日が幸せだった。
13歳の時、両親と弟を火事で亡くした私を引き取ってくれたのは、生前、父から疎遠になっていると聞いていた祖父母だった。
2人はとてもいい人達で私を本当の娘の様に愛してくれて、それからの生活は一変した。
部屋がいくつもあるお城のような屋敷で暮らし、手の込んだ刺繍をあしらったワンピースを着て、ごきげんようと挨拶をする女子高に通い、いつどこで使うのか疑問な社交ダンス、テーブルマナーまで身に付けた。
そうして過ごす毎日は忙しく、たまに両親と弟を思い出して泣いてしまう事もあったけど、
優しい祖父母に愛されていると感じていた私は、前を向いて生きていけると思っていた。
そんな中、17歳になった日の夜――。
夕食を取る為、席に着いた私に祖父はニコニコと笑顔で話し始めた。
「みや、桜庭家の坊ちゃんとの婚約が決まった。来週からそちらに行き、半年後の挙式に向けて、花嫁修業をしてきなさい。いいね?」
祖父はお話好きで、よく嘘か本当か分からない物語を聞かせてくれる。
これもその延長だと思って、はははと笑ってみせた。
「みや、真面目な話をしているんです。はしたないわ」
刺すような目で私を睨む祖母が言う。
冗談だと言って笑ってくれるのはいつだろう……。
無言のまま、いつもとは違う二人の視線を感じて、私の頭は現実逃避をし始める。
いつの間にか寝ちゃったんだ、私。
だとしたらこんな夢……笑えないから。何してんの、さっさと目を覚ましてよ。
「私まだ17歳だよ?学校だってあるし……」
「みや、お前はもう大人だ。それに、もう学校に行く必要はない」
「おじいちゃん、私やりたいこともまだまだあって……。それに結婚するなら好きな人と――」
「みや」
祖父が私の言葉を制止する。
いつもは笑い声が響く部屋がピリっとした空気で包まれ、夢でないことを証明するのには十分すぎるほどの胸の痛みが、私を襲う。
あの日私の手を取ったのはこの為、だった……?
爪が食い込む程、握っていた手から力が抜け、気付いた時には部屋を出て走り出していた。すぐにここから抜け出したかった。
無我夢中で走る中、これ以上進めないと思ったのは目の前に屋敷の門があったから。
見慣れているはずなのに、その門はとても高く、絶対に出れない監獄のように思えた。
(雨なんて降ってたっけ……)
今朝の快晴が嘘のように、空は分厚い雲で覆われ、降りしきる大粒の雨で前は何も見えない。
「ははっ……寒いなぁ」
肌に張り付く服が容赦なく体温を奪っていく。
それなのに目の奥は熱くて、溢れないように目を閉じた。
「俺と来るか?」
突然、雨音は消えて、
声が響いた。
聞き覚えのある声に私は首を横に振る。
どんなに足掻こうと祖父母の手を掴んだあの日から、私の道は決まっていた。
だから、もう……
「大丈夫だ。雨はいつか止む」
白い息とその人の声。
その言葉は雨音さえも打ち消して、私の耳に届いて 木霊(こだま)する。
それと同時に感じたのは、頭に触れた熱い温もりだった。
雨が頬を伝って零れていくのと一緒に、奥に閉じ込めた言葉も零れ出た。
「あなたと……いきたいっ」
私の声を聞いたその人は、 躊躇(ちゅうちょ)することなく、来た道を引き返す。
驚くほど温かい手に引かれながら、辿り着いたのは、微かに笑い声が漏れる扉の前。
昨日までの私はこの部屋で、祖父母と食事を目の前に座っていた。
でも、今の私はずぶ濡れで、身体を伝って落ちる水滴が高級な 絨毯(じゅうたん)を濡らしてしまっている。
「ここで待ってろ」
声が聞こえた瞬間、頭に被せられた服の間から見上げると、部屋へと入って行くその人と目が合った。
頭の上の服を掴んで広げ見ると、あの人がさっきまで来ていたコートで、ふと無意識にガタガタと震える身体に気付き、冷たくなった身体を覆うようにそれを肩にかけた。
しんと静まった廊下。
段々と頭が冷静になる。
私は部屋に入って行ったあの人を知っている。
祖父の知り合いらしく、確か、 藤堂(とうどう)という名で、屋敷に何度も訪れている人だ。
でもただそれだけで、会話を交わしたのはさっきが初めてだ。
それなのに……
なんで、あの人は……。
視界は真っ暗で、雨が容赦なく身体を濡らす中、あの人の顔だけはっきり見えて、
大丈夫だと言ったあの人の方が、なぜか悲しそうで、その人の顔が頭に焼き付いていた。
廊下を撫ぜるように吹いた風にぶるっと大きく震えた私は、借りたコートを頭から被り直し、少しでも暖かさを求め、微かに声の漏れる扉へと近づいた。
会話が聞こえたら……と思っていたけど、この重く冷たい扉は私と中の人達の間に境界線を作り、その会話の内容が私の所まで届くことはなかった。
祖父は……とても頑固な人だ。
今まで自分の意見を変えたことなんてない。きっとそれは、誰に何を言われたって変わらないだろう。
初めから私が望むことなんて、関係がないのだ。
さっきまでの私はどうかしていた。
なにか変わるかもと……
縋(すが)ってしまった。
足掻いても、結果はなにも変わらないのに。
ガチャリ
扉が開いた。
中を見ようとした時、出てくる人がそれを阻止した。
扉が閉まる。
部屋から笑い声がした。
胸がズキズキと痛い。
それを誤魔化す為に、出来るだけ明るく、言った。
「やっぱり私、結婚するの?」
切れ長の目が、私を見る。
「したいのか?」
そんな訳ない。
でも、選択肢なんて無い……。
言葉が喉で詰まって、俯く私に
その人は、自分の人生を生きろと言ったのだ。
「今日は何時に帰るの?」
「9時くらいになると思う」
「ふーん」
「なんだよ」
「別に……。少し遅いなぁって思っただけ」
「……7時に帰る」
宏忠さんと私の同居生活が始まった
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