テラーノベル
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玄関の扉の前で大きく深呼吸をしたあと、手の中で温もりを帯びた鍵を鍵穴へ差し込んだ。
シンと静まり返った空気の中、鍵の開く音がいつもより大きく響いた気がする。
私は忍び込むように静かに足を踏み入れ、息を潜めながら扉を閉めた。
そのままマットへ腰を下ろし、音を立てないようブーツを脱ぐ。
廊下へ続くリビングからは、淡い灯りが漏れていた。
遼……
起きてるのかな……。
リビングの扉を見つめ、耳を澄ませる。
けれど、向こうから物音一つ聞こえてこない。
「………」
私は静かにブーツを揃えると立ち上がり、両腕を順に鼻へ近づけて匂いを確かめた。
夜風で冷えたコートには、仕事帰りの自分から漂うはずのない香りが残っている。
つい先ほどまで彼と過ごしたホテルの匂い。
そして、それに混ざる彼の煙草の香り。
しまった……
残業なんて言わずに、「飲みに行く」って言えばよかった。
髪へ顔を寄せて匂いを確かめ、眉を寄せながら小さくため息をつく。
浮気の匂いを纏ったコートを急いで脱ぎ、その場へ置く。
緊張で強張る頬を意識しながら、リビングへ向かった。
静かに深呼吸を二回。
「ただいまー」
いつも通りを装い、ペタペタとスリッパを鳴らしてリビングへ入る。
「……遼?」
寝転んでいるはずだと思って視線を向けたソファには、遼の姿はなかった。
リビングに続くダイニングキッチンにもいない。
……寝室かな。
私はバッグとコートをソファへ置き、寝室へ向かった。
静かに寝室の扉を開け、そっと中の様子を窺う。
膨らんだ羽毛布団の中から、規則正しい寝息が聞こえてきた。
気配を消すように暗闇の中で夫の寝顔を確かめる。
良かった……
完全に寝てる。
うたた寝をするソファではなく、ベッドの中で深い眠りにつく夫を見つめ、小さく安堵の息を吐いた。
私はその寝息が途切れないよう物音を立てず、クローゼットからパジャマと下着を取り出して抱え、静かに寝室の扉を閉めた。
――『プライベート用の携帯は家ではバイブにしてあるから、何かあったら連絡しておいで』
バスルームへ向かう途中、別れ際に今泉さんが残した言葉をふと思い出す。
「……」
バスルームの前で足を止め、フローリングの木目へ視線を落とした。
「……心配してるだろうし……」
無事に帰宅しました。
そのくらいのメールなら……送ってもいい?
私は顔を上げると、着替えを抱えたままリビングへ引き返した。
ソファに置いたバッグから携帯を取り出し、宛先へ彼のアドレスを入力する。
けれど、本文を打とうとしたところで指がぴたりと止まった。
……何て書けばいい?
『無事に帰宅しました』
そんなメールを送って、もし奥さんに見られたら?
彼は大丈夫だと言っていた。
それでも、「万が一」はある。
奥さんに見られても怪しまれない言葉って、何だろう……。
「………」
しばらく考え込んだ末、短い一文だけを打ち込み、送信ボタンを押した。
緊張しながらディスプレイを見つめていると――
……来た!
思っていたよりも早く、手の中で携帯が震え始めた。
『おーい、亜紀! どうして真夜中のラブメールが「本日は大変お世話になりました」なんだ? 「いえいえ、こちらこそ。ご馳走さまでした」って返せばいいのか?』
彼からの返信メールを読み、思わず吹き出した。
間違いなく今泉さんらしい返事。
自然と頬が緩み、私はすぐに返信を打つ。
『だって、家の人に見られても大丈夫な内容を考えていたら……それになっちゃった。
無事に帰宅したから、心配しないでね』
『うん。頭の良い亜紀だから、そうだろうと思った。無事に帰宅できて良かった。
メールしていて大丈夫なのか?』
『主人は寝てるから大丈夫。今泉さんは?』
『俺はベランダで煙草を吸いながら冬の大三角を眺めてる。今日は雲がないから綺麗に見えるぞ』
「冬の大三角?……あっ、星を見てるんだ!」
私は急いでベランダへ飛び出した。
夜空を見上げると、無数の星が輝いている。
この時期は明るい星が多く、一年で最も星空が美しく見える季節だ。
「オリオン座のベテルギウス……おおいぬ座のシリウス……こいぬ座のプロキオン……三つを結んで……できた! 冬の大三角!」
両手で三角形を作り、南東の夜空へ掲げながら嬉しそうに声を弾ませた。
『今、私も見てるよ。冬の大三角。
今日は本当に星が綺麗に見えるね』
星空の下、ベランダの手すりにもたれながら、私は彼へメールを送った。
初めて交わす、彼との真夜中のメール。
嬉しくて、嬉しくて。
彼から届く文字さえ愛おしく思える。
私を抱きしめてくれた彼の温もりを思い出し、夜風の冷たささえ感じなかった。
遠く離れていても、見上げる夜空は同じ。
今、この瞬間も。
同じ星空を見上げている。
会いたい時に会えなくても……
私たちは繋がっている。
さっきまで一緒にいたのに……
もう会いたいよ。
身体に残る彼の余韻に包まれ、今まで感じたことのない胸の高鳴りと、矛盾するような切なさに小さなため息が零れた。
彼から届いた「おやすみ」の文字を見つめたあと、私は静かな光を放つ月を見上げる。
「おやすみなさい、今泉さん……」
風に溶けてしまいそうな小さな声で呟き、星の輝く澄んだ夜空へ、真っ白な息をそっと吐いた。
コメント
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柏木さくらさん、第86話「余韻(4)」読みました!✨ 家に帰ってからの緊張感、めっちゃ伝わってきた…!「残業って言っちゃった」って後悔するところ、リアルすぎてドキドキしたよ😭 でも今泉さんとのメールのやり取り、特に「本日は大変お世話になりました」に対する返しがもう最高すぎて思わずニヤけた…あの二人、距離が離れてるのに同じ星空見上げてるって描写がエモすぎて胸がギュッてなった🥺💕 「おやすみなさい、今泉さん」の呟き、切なくて美しすぎてずっと余韻に浸ってるよ…!
#ロマンスファンタジー
Jasmine
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桃下結衣
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ruruha
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