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翌日。
社食の仕事を終えた柳田さんが経営戦略企画部に顔を出したのは、午後三時。
基山の一件で俺の今後次第では、部内が混乱し、自分たちの負担が増えるとやきもきしている部下たちに、俺は彼女を臨時のアシスタントとして紹介した。
みんなからの視線が冷たいことは、昨夜のうちに柳田さんに伝えてあった。
「総務部からお手伝いに参りました、柳田椿と申します。総務部では給食運営課と清掃業務課に就いています。経営戦略企画部の皆さんのお邪魔にはなりませんよう、精一杯勤めさせていただきます」
白いブラウスは全てのボタンをきっちりと留め、支給されている制服のベストを羽織り、スカートはちょうど膝頭が見える丈。長い黒髪はいつも通り三つ編みで、前髪は眉の位置で整えられている。スッピンかと思えるほど薄い化粧に、顔半分が隠れる黒縁眼鏡。
ブラウスのボタンを外したり、大きなりぼんを首に巻いたり、スカートを短くしたり、目や口を無駄にテカらせていた基山とは大違いだ。
柳田さんの容姿と、硬すぎる挨拶と直角に腰を曲げたお辞儀に、部下たちは口をポカンと開けていた。
「柳田さんは社食での業務を終えてからの、午後三時から経営戦略企画部を手伝ってもらいます。基本的には私のアシスタントとして事務作業をしてもらいます。松原さん」
「はいっ」
急に名前を呼ばれて、松原さんの表情が少し強張る。
「柳田さんにこのフロアについて教えてあげてください。資料や備品の場所なんかを。それと、基山さんが不在で松原さんに業務が集中しているので、手一杯の場合は私に相談してください。私の判断で、柳田さんに業務を振り分けます」
「わかりました」
「では、業務に戻ってください」
起立していた面々が一斉に腰を下ろす。
松原さんだけが、立ったまま。
松原さんより先に、柳田さんが彼女に近づいた。
「ご指導、よろしくお願い致します」と、深々と頭を下げる。
松原さんも「松原です。こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げた。
「早速、一通りご案内します」
松原さんが柳田さんを連れて、壁に並んだキャビネットの説明をする。柳田さんは近くの席の男性社員に、自ら丁寧に挨拶をする。された側も、立ち上がって頭を下げた。
経営戦略企画部は二つの課からなる。
渉外戦略企画を担う一課と、社内での経営方針などを企画する二課。
一課は営業と、二課は経理や総務、広報と連携している。
一課所属は、課長の他に男性社員が五名。
二課所属は、課長の他に男性社員三名と女性社員一名。
基山と松原さんは課に属せず、事務作業全般を担っている。
礼儀正しく一人一人に挨拶をし、熱心に松原さんの話を聞いている柳田さんを見ていたら、なぜか誇らしくなった。
これから、みんな、彼女の能力に度肝を抜かれるだろう。
埋もれていた優秀な人材を見つけてきた自分を褒めてやりたい。
ま、実際には俺が見つけてきたわけじゃないけど……。
こうやって、堂々と柳田さんと一緒に働けることが、嬉しくて仕方がなかった。
三十分ほどフロア内を案内され、挨拶をして歩いた柳田さんが俺の隣に座った時、ふぅっと小さく息を吐いたのが聞こえた。
見ると、かなり表情が硬い。
「疲れた?」
「はい。初対面の方に挨拶をするというのは、緊張します」
「社食で働いてるのに?」
「社食では自己紹介はしませんし、お客様の顔や名前もわかりませんし」
「お客様?」
同じ社内の人間なのに? と思った。
「え? はい。社員とはいえ、利用してくださる方々はお客様です。お客様がいらしてくださらなければ、潰れてしまいますから。それはつまり、社食で働く私たちの生死に関わると言っても過言では――」
「――ストップ!」と、俺は彼女の顔に手を平を向けて、制止を促した。
なんだか、漫才のネタのような、この流れ。
「よくわかりました。生死に関わるっていうのは過言だと思うけど、柳田さんが社食の仕事が好きだってことはよくわかったよ」
「……ありがとうございます」
柳田さんは唇をキュッと結び、目を伏せた。
腿に置いた手がスカートをキュッと握る。
まだ、俺にも緊張してるのかな。
知り合って日は浅いが、俺としては他の同僚と比べるとかなり親しくなれた気がしていた。
少なくとも俺は、女性社員からバレンタインにチョコを渡されても受け取らないし、自動販売機のものとはいえ、自分から飲み物をご馳走したりしない。
彼女のおにぎりを楽しみにしている自分にも、彼女との会話を楽しみにしている自分にも、驚いている。
とにかく、俺としては柳田さんと親しくなったつもりでいた。
……と思っていたのは俺だけだったか。
少し、凹んだ。
「あのぉ……」
柳田さんの言葉に、ハッとした。
凹んでる場合じゃない。
俺は資料を差し出す。
「早速だけど、これ――」
「――ありがとうございます」
「え?」
仕事を与えて礼を言われ、不思議に思う。
見ると、資料に伸びた彼女の手が、少し震えていた。
「是枝部長と一緒に仕事が出来て、うれ……しいです」
いつも張りのある声で活舌よく話す柳田さんだが、今は戸惑いがちな上、顔は真っ赤。よく見ると、碧い瞳が潤んでもいる。
「べ、勉強に! なりますし。部長のような優秀な方のお手伝いが出来るのは、と、とても光栄で――」
「――ストップ!」
俺は緩む口元を引き締めて、制した。
「そう言ってもらえて、俺の方こそ光栄デス」
何やら、松原さんからの視線を感じるが、そこは気にしないふりをした。