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ダリウスの「静かな時間」は長くは続かなかった。
最初に異変が出たのは足だ。
(……重い)
一歩、踏み込む。足裏が雪を噛んだまま離れない。さっきまで床に吸いついていた感覚が、べたりと粘る。
もう一歩、引く。膝がきしみ、ふくらはぎの奥がじくじく焼けた。
ワーウルフの爪が迫る。軌道は見えている。肩の線、腰の捻り、爪先の踏み込み。
わかるのに、体が追いつかない。
(……間に、合わない)
剣を回避の軌道に乗せようとして気づく。腕が遅い。刃が風を切る前に、獣のほうが一拍先へ出ている。
さっきまで「軸」に任せていた動きが、急に腕力の仕事に戻った。重い。鈍い。
ガキンッ!
刃と爪が噛み合った。正面で受けてしまう。
衝撃が腕を駆け上がり、肘がしびれ、肩が跳ねた。
「っ……!」
ダリウスは剣を振り返さない。置くように構え直す。
攻めじゃない。守りだ。自分でもわかるくらい、動きが受けに傾いていく。
見えている。
振りかぶる肩。踏み込む爪先。目線の揺れ。
それが全部、頭に入ってくる。
入ってくるだけで、消化できない。
受ける。流す。受ける。
盾の縁を使って爪を滑らせる。肩でいなす。
それでも刃が遅れ、肘が固まり、手首が戻らない。
呼吸が変わった。
「はっ……は、っ……!」
肺が熱い。肋骨が内側から押される。さっきまで静かだった鼓動が、耳元に叩きつけられる。
視界の端が暗い。洞窟の壁も雪もぼやけていく。真ん中だけが刺すように鮮明で、逆に狭い。
(まずい——)
思った瞬間、ワーウルフの眼が細く光った。肩が沈み、腰がひねられる。上体がしなる。
牙だ、と理解したときには遅かった。
「——っ!!」
ガブリ。
肩口に灼ける痛みが走る。肉が裂ける音がした。牙が沈み、骨のすぐそばを押しつぶす感触が伝わる。
次の瞬間、首が振られた。
視界が反転する。天井。床。天井。
背中が落ちた。
ドンッ——!
肺の空気が一気に抜ける。喉が開いても吸えない。息が傷口のほうへ漏れている気がして、肩が勝手にすくむ。
「ダリウスーーー!!」
遠くでミラの声が割れた。
岩を蹴る足音。駆け出す気配。直後にそれが止まる。
「行くな! ミラ!」
オットーの声が低い。掴んだ腕の力まで想像できた。背中は見えないのに、止め方だけが浮かぶ。
意識が落ちかける。視界の端が黒い。首の力が抜けそうになる。
そこで、歯が鳴った。
(……ダメだ)
闇が甘い。そこに沈めば楽だ。
ダリウスは舌を噛んだ。血の味が広がる。
(ダメだ……足止めを……)
体を動かす。剣に手を伸ばす。指先に冷たい鉄が触れた瞬間、肩の傷が電撃みたいに跳ねた。
「っ……!」
握力が抜ける。刃が滑っていく。指先が空を掴む。
(持て、ない——だと?)
左手で床を押す。右肩は動かそうとしただけで痛みが走り、腕が落ちたまま上がらない。
歯を食いしばる。顎が震える。
(……あいつ、狙いやがったな)
噛まれた位置。利き手側の肩。
ぼやけた視界の向こうで獣の輪郭が揺れる。動きが無駄なく、真っ直ぐだ。
(利き腕さえ潰せば、俺の剣は“封じられる”ってわけか)
吐く息が熱い。吸う息が浅い。
それでも口が動く。
「……まだ、終わりじゃないだろ……」
声は掠れた。だが音になった。
剣は握れない。
でも立つことだけは捨てない。
左腕と脚で体を起こす。膝を立てようとした、そのとき。
背後でページをめくる音が止んだ。紙の擦れる音が、ぴたりと切れる。
「——完了です」
エドガーの声が洞窟に落ちた。淡々としている。噛まずに出る声だ。
振り返れない。だが空気が変わるのがわかる。
詠唱の終わりだ。
「《穿炎連鎖》——!」
炎の線が走った。赤い槍がいくつも貫く。
ワーウルフの体が一瞬、固まる。筋肉が引きつり、爪が宙で止まった。
次の瞬間。
獣の輪郭が崩れた。肉が落ち、骨が鳴り、重い塊が床に広がる。
血と焦げの匂いが混ざり、鼻の奥がつんとした。
遠くで石が動く音がした。
ごごご、と低く響き、奥の壁の一部が沈む。新しい扉が現れ、ゆっくり形を作る。
ダリウスはその音を聞きながら、息だけを吐いた。
右肩から血が滴る。左手が震える。膝が笑いそうになる。
さっきまで掴んでいた感覚は、もうない。
残ったのは痛みと、冷たい床と、喉の奥の鉄の味。
川上 さくら 😈🔥 @同担拒否
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